06. 無色の世界
よろりとエクシアのコックピットからまろび出る。
見えていないわけではない。だが、異常を来たした世界を前に姿勢が保てない。
くらくらする。
なんとか部屋に戻って投げ捨てたパイロットスーツを見下ろす。青だと認識していたはずのそのベースカラーは灰色に見えた。
端末は、ベストは、ストールは。
色が思い出せるものを引っ張り出してきてみても、どれも同じだった。
白と、黒と、その中間に位置する灰色。
色の濃淡は分かっても彩度が分からない。
気持ちが悪い。
吐きそうだ。
なんなのだこの世界は。昨日まで、ほんのさっきまで変わらずに色を映していたというのに。
―――本当に?
フェルトの髪の色はどうだった。服の色は。
思い出そうとしても当然のように情報を処理したのか、今日のフェルトも以前のフェルトも違いを見出せなかった。
でもきっと、あの目を見た瞬間からきっと世界は色を失っていたのだ。
――――あの男の、見知らぬものを見る目を。
エクシアの側には居られなかった。
色の識別ができなければ戦闘に参加できない。つまりミッションを遂行できないということだ。
計器の示す色が分からなければ反応は遅れるし、カメラの情報があっても敵機の識別が出来ないばかりか見方機まで同じに映る。形で見分けはつくが、それを認識するまでにどれだけ拡大すればいい。
それでも命令は下るのだ。
そのミッションを遂行しようと思えば全てを破壊し尽くせば良い。
そうすれば、ミッションはコンプリートだ。武力による戦争の根絶。何をかもを破壊し尽くせばその理念は達成される。
けれど見境なく破壊しつくすしか能が無い人間でいるのは、もう真っ平だった。
破壊しかできない人間であることは知っている。
だが。けれど。
最低限のラインは持っていたかった。
なら戦えない。
戦えなければエクシアの側には居られない。
戦えなくても居られる場所なんて……一つしか思い浮かばなかった。
07. 微睡みの猫
他に行けるところなど無かった。
医務室の扉を静かに開き、男が居るはずの仕切りのスペースへと滑り込む。
予想通り男はそこに眠っていた。
少し眉間に皺を寄せ、顰めた顔はいつも目にするよりも険しい。それはきっと記憶がないという不安から由来するものだろう。眠っているときですら気を許していない。
今は、起きないけれど。
それだけがこの男が奴変わらない証のようで少しだけ安心する。だって知らなくても俺には気を許している、そういうことだ。
その男の枕元に蹲りながら、恨み言を口にする。
「なんで忘れたりなんてしたんだ」
責める事がナンセンスであることは分かっている。
それでも口にせずにはいられなかった。
いつだって口煩く手を出してきて、どんなに邪険に扱ってもめげない。なのにどうしても踏み込まれたくないと思う場所へは拒絶すれば無理に踏み込んでくることもない。
絶妙に奴は空気を読んだ。
だから安心できた。爆音や銃声以外の音が生まれた。
土の色とレンガの色、それから血の色以外の色が生まれた。
男が現れたことで世界は明るくなった。自覚は無かった。世界はいつも同じものだと思っていた。同じ見え方をするものだと思っていた。
ああ……でも。
白黒。彩の無い世界。
今は分かる。今だから分かる。この世界の変貌は何の所為か。何故、こんな変調が起きたのか。
思い当る理由など一つだけだ。
(こいつの所為だ……)
世界が色を持ち、また失ったのは。
そんな世界で目を開けていても仕方がない。いつもと同じなのに同じには見えないなんて疲れるだけだ。
閉じた目蓋の裏の世界はいつだって真っ暗で今は平穏だ。
*
「なんでって言われてもなぁ……」
人の上で微睡んでいる子供の姿に溜息を吐く。
気配を消すのが上手いなと思う。
気づかなかった。今は此処が安全であるかどうかまだ判断できないから気は張っているはずなのに。
それとも忘れている俺が無意識に判断を下したのか。こいつは安全だと。
(俺は、そんなにこいつに気を許してたのか?)
自分は警戒心の薄い人間ではない。
それなりの人生を歩いてきたから人間を信じられないことだってある。それなのに、ここまで近づくことを許したなんて失態としか言いようが無いが、それなら理由はつく。
(誰だって気を許す奴の一人や二人、居るだろう?)
始終気を張ってばかりではやっていられない。こんな世界だからこそ誰か気を許せる相手が欲しい。
絶対の安心と絶対の信頼。
……絶対、は難しいかもしれないけれど。
それでも振り返ったときに銃を突きつけあうのではなくよぉと挨拶を交わす仲間の一人くらい、眠りを妨げられない仲間の一人くらい、居たっていいだろう。
それがこの子供なのかもしれない。
刹那・F・セイエイ―――記憶を失う前の俺が必死になって守りたがったという子供。
聞いた話でしかない事実。
こうしてみると本当に幼い。あどけないという寝顔はしていないが、頼りない子供のような寝顔だ。
(こいつに、そんな信頼を持っていたのか)
本当か?こんな子供が?子供だからこそか?
「ちっくしょー」
もやもやとする頭の中に答えはない。記憶が無いということが辛いと、今が一番実感している。
「俺だって忘れたくて忘れたわけじゃないんだっつの」
記憶をなくすなんてそんなことやりたくてやる馬鹿は中々いない。馬鹿、といよりは都合のいい事か。
忘れたい記憶だったのだろうか?
多分違う。
聞いた話でしかなくても、俺がそんな風に絶望していたとは思わない。
「なんなんだよおまえ本当」
傷ついたように、疲れたように、眠る子供に手を伸ばす。
丸まって眠るのは警戒心が強い証拠だ。触れれば飛び起きるだろうと思ったのに、頭に触れてもピクリとも動かない。
それほどに疲れているのか。絶望しているのか。
それとも。
俺を信用しているのか?
まさか。
不思議なほどに当たり前のような強い否定が湧き上がる。
それこそがこの子供を知っている証なのだと俺はまだ気づけなかった。
08. 何度恋する
覚醒に目蓋がピクリと動き、睫毛が揺れる。
ずっと見ていたから覚醒のタイミングが分かった。
飽きることなくよく見ていたと思う。他人の寝顔など面白みもないのだが。
ただこの警戒心の強そうな子供が人の隣に忍び込んできて丸まって眠っている事実に、奇妙に微笑ましい気分になって少しだけ警戒を解いた。
「よぉ、お目覚めか?」
ぱちくり。子供は頭を上げて人の顔を見た。
一度瞬きをして瞳を翳らせた辺り目覚めは悪くないらしい。
つまりそれは混合することなく今を把握しているということだ。寝起きというわけでなく、ちょっとした日常の会話の中でも他の人間は混合することもあるというのに。
ほんの少しの仕草。その言い回し。
それはきっと変わっていないのだろう。だから人は目を瞠り、一瞬だけでも記憶が戻ったのではないかと錯覚する。
(そんな簡単に戻ったら苦労しないっての)
記憶のある自分、記憶の無い自分。それは周囲にとっては同じ人間であるのだろうが、こっちは見知らぬ他人だ。自分というのは記憶にある今のこの俺だけでしかない。
他人の記憶の中にだけある知らない人間と同一にされても困る。
だが、違うのだと完全に拒絶されるのも―――堪える。
あんたじゃないのだと、そう物語る目が、鬱陶しい。
「人が眠ってる隙に潜り込んでくるとはずいぶんと大胆だな」
「……」
だんまりか。
言葉を持たないわけではあるまいに。
「なんとか言えって」
苛立つ。眠っていたときは不思議と微笑ましかったのに。
こいつも俺の記憶には無い『俺』を見ている所為だろうか。
俺の知らない『俺』ばかりを見て、今の俺を拒絶するからだろうか。そのくせ、こんな風に近くに寄ってくるから錯覚するのだろうか。
今の俺を受け入れられているのだと。
「なんだおまえ喋れないのか?」
そんなわけが無い。
俺はこいつが『俺』の名を呼ぶ声を聞いている。
「……ぃ」
搾り出すような声が零れた。
俯いた顔の下で唇が動いたのは分かったが、あえて聞こうとはしなかった。そんな聞き取りづらい音を拾うのではなく言うのならもっとはっきりと言えばいい。
「聞こえねぇよ」
だからわざと突き放す。
突き放して、それでももっと声を上げないなら聞くような話じゃないだろう。
「分からない」
子供は顔を、上げた。
そして迷子の子供が途方に暮れたような、そんな顔をして叫ぶように続けた。
「あんたの瞳の色も、あんたの髪の色も、服の色も、何も分からないっ」
必死なその色に声を失う。叩かれるまま、胸に拳を受ける。
必死に叫びながら傷ついたような瞳は揺らいで、それでもなお射抜く。
あんたが、いけないんだと。
あんたの、所為だと。
「あんたの髪の色は薄い茶色だったはずなのに、今の俺には灰色にしか見えない」
色が見えない。
色が分からない。
世界はモノクロだと、子供は言う。
「おまえ……」
それはこいつが唐突に色彩に異常をきたしたという事だった。
見えていたものが、識別できていたものが、分からなくなったということだ。
「あんたの所為だ」
なんでそうなるのか、何故それが俺の所為なのか。
そんな茶々を入れられる空気ではなかった。思いつめたような空気は、そんな冗談を許さなかった。
酷く思いつめた顔で子供は再び俯く。
「戦えない。エクシアの側には居られない」
「エクシア……」
知識は頭に入れている。
ガンダムとガンダムマイスターそれからソレスタルビーイングという組織について。
このガキはガンダムマイスターの一人。
接近戦に特化したガンダムエクシアのパイロットであるはずだ。
確かにソレスタルビーイングのガンダムマイスターが戦闘職種にあたるとすれば、視覚の異常は命取りになるだろう。
「エクシアに乗れない俺に、ガンダムになれない俺に、なんの意味があるというんだっ」
腹が立ってきた。
どうして他のもののために泣く子供の面倒を俺がみなくてはならないのか。どうせなら、そう。
どうせなら俺のために泣けばいい。
俺のために落ち込んで、俺のために泣き叫べばいい。
他の何かのためにそんな感情を表すなんてやめて欲しい。ずるい。許せない。
なんだどの言葉が正しいのか。上手い表現が思い当らない。
嫉妬といえばいいだろうか。独占良くと言えばいいだろうか。
黒い、感情の塊。
体が自然と動いた。
「おまえ少し黙っとけ」
「なにをっ……」
指が刹那の顎を掬う。
その手で俯いた顔を上げさせ、自分の顔を近づける。
「ロックオ……」
子供が名前を呼び終わる前に。誰かの、俺ではない『俺』の名前を呼びきる前に唇を塞いだ。
09.目覚めの接吻
舌が、唇を割り入り込んでくる。
それは奴がよく俺に仕掛けたやわらかなキスではない。
例えば額の上に、例えば頬に、例えば唇に。
別れ際、ふと視線が合った時、事ある毎に落とされた柔らかなキスではない。
もっと深く、息の出来ない―――
「なんっ…で……っ」
「ちょっと黙っとけ」
割り込んでくる舌が邪魔をして喋れない。絡められた舌から唾液が、吐息が混ざる。
俺のことなんて知らないくせに。知らないと、誰だと言ったくせに。
どうしてこんなことをされるのか。
分からない。
こいつは俺のことなど何も知らず、ただその辺の名前も知らない子供だと思っているはずなのに。
嫌がらせか、鬱憤が溜まっていたのか、それとも……
(慰めてくれているとでもいうのか?)
記憶がないというだけで本質が変わるわけではない。記憶が人格を形成するというのなら多少は関係あるかもしれないが、忘れた記憶も経験として失われたわけではない。
だから新しい経験が積み上げられ、上書きされない限りは変わらないはずだ。
だから?
だからなんだというのだ。こんなことをするのも過去の経験からか。体が覚えているとでもいうのか。
「おまえが何を考えているのかわからない」
唇が離れた瞬間に、その目を見据える。
生理的な涙で視界が揺れる。それを見返してロックオンは口元を歪めた。
「俺を見ろよ」
「何を言って……」
「俺の知らない『俺』のことばっか言ってんな」
(……知らない、だと?)
思い出す努力すらしないというわけかこの男は。
自分がどんな風に思われていたのか、どんな風に思っていたのか。
世界をどうしたいと思ったのか。
何故、ガンダムに乗っているのか。
それはガンダムマイスターであることを放棄するということだ。ガンダムマイスターたるには技術だけではない。その想いも、思想も、全てがガンダムマイスターたらせる。
個体として記憶が無くても確かにこの男はロックオン・ストラトスだ。だが……そんな怠惰なことを許してやれるほど自分も世界も優しくはない。
「知るか!!」
男の身体を無理やり引き離す。体格差でどうしても敵わないはずの身体はけれど手加減でもされているのか人一人分くらいの隙間ができた。
馬鹿なことを紡ぎだしたその唇に、噛み付くように口付ける。
「思い出せ馬鹿がっ」
こんなキスをするほど人のことを好きにさせたこと。
世界がどんなことをしたのか、世界をどんな風に変えるのか。
俺の後ろを守るのはあんたの仕事なんだって。
「忘れるなんて、許さない」