謎
夜半。
彼女がその時間に起きていたのは偶然だった。
二番目の兄が帰ってくることが分かっていたわけではない。
風来坊のあの兄の帰りを予測することなど不可能だ。
まして虫の知らせ、などというものでもありえない。
凶事が起こったわけでもなく、変事の知らせもなく、何時ものごとく笑みを浮かべた兄を唯々迎えるためだけにそんな虫が騒ぎ出したというのなら彼女は即刻その感覚を封じるために黄医にでも掛け合うだろう。貴重な睡眠時間を削られてはたまらない。夜更かしは乙女の大敵なのだ。
今夜の偶然には感謝すべきか呪うべきか。
彼女―――文姫が自分の堂室に帰る前、水を貰っていこうと回廊を歩いていて見つけたもの。
旅装のまま明かりもなしに歩く兄の姿。何ヶ月ぶりの帰還でこんな夜更けなのかと呆れつつお帰りなさいと声をかけたその瞬間。
文姫はそれを見てしまったのだ。その手に握られたもの、そうして振り向く瞬間消えてしまったものを。
仕様が無い兄だとは思っているけれど、嫌いなわけではないし兄弟三人仲はいいと昔から評判だ。
むしろ報告とは別に聞かせてくれる各国の話は楽しいとは思う。
だが……
パチン、と高い音が響き渡った。
頬を打つ音。
次いで轟く声。
「利広兄様の馬鹿〜!」
兄妹喧嘩勃発、である。
ひりひりとする気がする頬に手を当てる。
十二国中最も南にある奏の気候はすでに昼間ならば暑さを感じるほどに温かくなってきた。もともと冬でも温かい国だ。外から帰ったばかりの利広の手は風を切って来た為冷やりとしてる、というよりも長時間の騎乗により生暖かくほてっていた。のでそうしたとて気持ちよくはない。
呪を施した冬器でなくば傷つかぬ体といえど、常と同じく痛みはある。
とはいえ平手でましてや女の力だ。そう痛くはないのだが……頬に手のひらの形が残っているだろうか?
「……何かやったかな」
家に帰ってすぐの出来事だ。
まさに家に入った瞬間、とは言わないが未だ自分の堂室にも帰ってはおらず旅装のまま。そんな状態で怒られるようなことはなんだったかと利広は考える。
「利広」
「あぁ、兄さん」
文姫の叫びが聞こえたのだろう。
回廊をやって来た兄にただいま、と手を上げて見せれば。
「何をやらかしたんだ」
「それがさっぱり」
眉を顰める兄に、肩をすくめてみせる。
ふざけているわけでもなく、本気で分からないのだから仕方が無い。
こちらが教えて欲しいところだ。文姫も何に起こっているのか教えてから殴ればいいものを、と都合よく考える。
それが自分でわからぬようでは反省の色は認められないということであろうが、帰ってきて早々のこの一幕は真怖い。お姫様のご機嫌をとるのはなかなか難しいのだ。
「行く前は?」
「特に思い当たらないな」
そもそも彼が今回家を出たのは4ヶ月前。そこまで怒りを持続させるのは難しい。
特に文姫のような感情の起伏をハッキリとさせる人間には難しいだろう。
これがこの目の前の兄ならば分からないけれど。
彼らのように何百年も生きていれば一年にも満たない日時などほんの僅かな時間だが、それでも「感情」というものは刹那的なもので怒りでもその対象が目に入る場所にいなければすぐに消える。
「土産は」
「いつも買ってきてないよ」
それもそうだ。
思い出したようにふらりと帰ってくる彼に一々土産など期待するほうがおかしい。
これが父だったならばまた別であるが。
ならば、と利達は言う。
利広がわかっていないのならば、彼が考察して理由を炙り出す他ない。
弟と妹の不和は長子にも被害を及ぼすのだ。
「帰ってきてからの行動を並べてみろ」
「厩に行って奇獣を置いて、厨に行ってちょっと食事を貰ってきたかな」
それだけを聞くならば何も問題がないように思えただろう。……太子として素行に問題がないとは言い難いが、とりあえず文姫の機嫌を損ねるような行動でもあるまい。
が、利広と違いずっと 宮に居た利達には思い当たることがあった。
この時間、厨に人が居るとは思えない。そうしてこのような非常識な時間に下女をたたき起こすほど利広は暴君ではない。自分で何かを適当に見繕って口にしたはずだ。
「厨で何を食べた?」
何故そこまで聞くのか分からないと利広は兄を見やる。
だがその何を食べたか、が非常に問題だったのだ。
食べられるようなものは果物か菓子。保存食はまた別の場所に貯蔵しているからこのどちらかであろう。この時刻では夕餉の残りなどとうにない。
果物ならば問題ない。
が……
「たしかなんというかまでは見なかったけれどこれくらいの焼き菓子だったかな」
両の手で丸く示すリング状の物体。
その中央には穴が開き、上にも中にも甘い物が入っていたという。
思った通りの答えに溜息を一つ。
情けなさからか、馬鹿らしさからか。
だが妹が怒った理由がどんな他愛のないことであれ。
「利広、お前が悪いな」
この世界で最も早いとされる麒麟――はさすがに無理だが、騎獣の中では最速とされる虎に似た生き物を駆り利広は兄の助言を元に慶に来ていた。帰ってきたばかりのところ何故、と思わないでもないが文姫の機嫌を損ねたまま家に留まるのは非常に居心地が悪い。
それを治す方法だと言われ、それを買い行った店で彼はやっと幸運にめぐり合ったのだ。
―――最もここで会えなければもちろん会いに行っただろうが。
「……それは駄目だろう」
「酷いなぁ。陽子もそう言うの?」
高くもなく、安くもなく、そこそこに評判の良い飯屋に場所を移した二人は早速何故此処にいるのかなど情報を交換し合い、まもなく理由を告げた利広に呆れたように陽子は言った。それに対して利広は拗ねたようにというよりは不思議そうに返す。
利広にはいまだ、文姫が何故それほどまでに怒ったのか分からない。
聞けば、文姫が怒ったのは彼が彼女の菓子を食べてしまったかららしい。だからこそ彼はわざわざ買いに来たのだが。
問題は何故あそこまで―――殴るまで怒ったのか、ということだ。普段の文姫ならばいやみ攻撃や仕事押し付け攻撃程度のはずだ。足を踏みつけるなり脛を蹴飛ばすなりは兎も角平手打ちはまずない。整えられた爪が傷を残すし、爪自体も折れてしまいかねないからだ。
ちなみにやはり利広の頬にも赤い線が走っている。
「女性は甘いものに目がないからな」
「陽子も?」
「まぁ。嫌いじゃないかな」
それはいいことを聞いた、と返した利広にさらに陽子は笑って言った。
「ちなみにそれは私が文公主に差し上げたものだ」
「えっ!?」
「以前気に入ったと仰られていたので送った」
新しく出てきた事実にさすがに利広も冷や汗をかく。
妹が―――文姫に限ったことではなくて家族揃ってだが――景王であるこの少女に傾倒していることはよく知っている。
兄はこの真面目で無骨な慶の女王がくれば何くれとなく世話を焼くし、妹は凛々しくて可愛いと言っては騒ぐ。
(ははぁ……そういうことか)
やっと謎が解ける。
菓子自体がどうこう……いうのもあるだろうが、問題は陽子に貰ったものという点だ。
貰ったはいいが、すぐに食べたのではもったいないと眺め眇めつしていたに違いない。
(そしてそれを知らず、私が食べてしまった、と)
兄がその時点で教えてくれていればそんな苦労もなかったのだが。
まぁ陽子に会えたので良いとしよう。
「食べ物の恨みは恐ろしいんだ」
心底真面目にそう言う陽子にさすがに言えずに利広は唇の端だけで笑んで思う。
(文姫も報われないな……)
……報われても困るのだが。
理由である少女は何も知らず笑みとともに全く方向性の違う、だが女性の機嫌をとるには有効な助言を下していた。
どうしてそんなに詳しいのか。またどうしてそんなに実感が篭っているのかという新たな謎が残ったが。
妹や彼女の友人、そうして彼女の言動に服装を思えばおそらくは簡単に解明できるであろう。
- 了 -
反省文と称して「駄目男祭り」に期限過ぎたくせに出典させて頂きました(爆)ごっごめんなさい〜
押し付けてしまってすみませんというか貰っていただいて有難うございました!
素敵なお祭りをなさってた柚羽さん方のサイトはこちら。