どうか、とその男は言った。
どうか。
願いを聞くものはただ一人。男にとっては幸いだったのだろう。
布に覆われた髪は僅かに零れ赤く血の様にも見える。
今は断罪するかのごとく鋭い視線をし、疚しいものは断罪するかのごとくそれは男をも見た。
それでも誰かに告げずには逝けない程心残りで男は願った。
どうか、と。
「確かに聞き届けた。」
最後の言葉を受けて少年は瞑目した。
天命の路、紅蓮の灯火
「浩瀚。できるだけ早く残っている仕事をまわしてくれないか?」
主の言葉に驚いて、諸官を束ねる任にある慶東国の冢宰は秀麗な顔の眉を寄せた。
現在の慶国は復興途中で常のこと以上に雑事が多く、いくらか憶えてきたとはいえ未だ文字を読むのに時間が掛かることもあり、一日にできる仕事量を調整して早急に採決しなければならないものから手がけている。
「ここ数日で期限が1ヶ月以内のものは全部終わらせてしまいたい。浩瀚には手間をかけてしまうけれど。」
どのくらいで終わらせるつもりかは知らないが、もし一日で終わらせようというのなら一ヶ月というと今、日常的に仕上げている書類の何倍にもなる。それを巧く計画を立て振り分けてから王に奏上するので後方の台詞は問題ないとはいわないが、たいした問題ではなかった。いつか終わらせなければならないものであり、それがすぐに片付くというのは決して悪いことではない。
「主上」
「なんだ?」
「無理をしてお体を壊されては意味がありません。」
書類だけでも彼女は多忙だ。
安定し始めてはいるが、官吏の数が多くは無い。
その上王の人柄からか、それとも彼女がその存在感を示したあの乱の所為か。
武人気質の人間が多いこともこの惨状の一端だ。
「休暇が欲しい。」
「主上?」
訝しげに問う浩瀚に、わずかに首を振って答える。詳しい理由は聞いてくれるな、と。
仕事の合間の休息はもとより堯天へはそのような事前の断りは無しに行っている。故にそれはそれよりも長期で時間がほしいということだ。
「少しでいいんだ。少し、個人的に調べたいことがあって。」
「誰か人を使うわけにはいかないのですか?」
必要ならばその事柄に詳しい人間に任せればいいし、そう。彼女の命なら彼が調べてもいい。彼女はそれができる立場にある。
だが、即座に否の返事が返る。
これは私事だから誰かの手に任せるわけにはいかないのだと。
ならば友人に頼む、という手はと問えばそれにも否。友人と呼べ彼女が自身で赴き調べたいということなれば虎嘯か桓堆あたりかということになるが、彼らも王ほどにとは言わないが休暇もろくに取れないほどで、目の前の男は更に多忙であることを彼女は知っていた。
隣国の王と麒麟がその中に入らないのは友人であるという前に恩人だという意識があるのだろう。
鈴や祥瓊や楽俊を荒事になる可能性が高いことを頼むわけにはいかない。
「必要なんだ。」
どうしてもそれが。
自分が自身ですることが。
必要なのだと、絶対なのだと彼女は言う。
その根本にあるのは義務感、と言ってもいい。突き詰めれば王であるからこそといえるのかもしれない。
「いたしましょう。」
真っ直ぐに嘘が無く見つめる瞳に深く降参の息を吐く。
望みを叶えよう、と。
所詮この主には甘い男だ。考えて無理だと思ったことは如何にしても阻止するが、絶対と願うことは叶えたいと思うのが仁情である。
「すまない。」
言葉とは裏腹に満足げに笑う主にただし、と彼は釘をさす。
「倒れられる前に仕事が終わりましたらに限りますが。」
「気をつけよう。」
思慮深げに頷くが、それを陽子が守るかどうかは別であった。
無理と無茶は慶では彼女の専売特許のようである。型破りなところだけは隣国の主に似てきたというべきか。ときおり彼らすら驚くべき無茶をやるからそうだとも言い切れない。
「台輔には?」
「まだ言っていないんだが……」
そうだろうと浩瀚は笑う。
口説き落とすには理攻めでくる浩瀚の方が怖いところではあるが、理攻めなようで感情的な麒麟の相手は厄介である。とくにあの能面のような男は顔に出ない分一層嫌味の語彙が多くため息は彼女を滅入らせる。
「怒るだろうな。」
「怒るでしょうね。」
主が心配なのだとは素直にいえない不器用な麒麟は彼女のその願いを諦めさせようと嫌味とため息とを連発し、最後には怒髪天をついて怒り出すだろう。
それを思ってくつりと浩瀚は笑う。
「仕方ありますまい。主上がそれを望むのですから。」
あれの溜息くらい耐えてみせなければ、と深く深い溜息を吐いた。
◇ ◇ ◇
サクリ。整備されていない路の踏む音がする。
寂れた裏通りだ。治安は悪いし罵声と喧嘩、ならず者以外これといったものもないが、表通りを見ても分からないものが見えてくる。
そこを選んで歩くのは髪を隠し、褞袍に身を包んだ姿は少年のようにも見えるが、華奢な体躯は少女のようにも見える。性別不明の綺麗さを持った人物である。
しっかりと顔を上げて歩くさまは表通りを歩く姿となんら変わりはない。
「まだまだ、か。」
自嘲気味に呟くのは指令も冗祐だけを憑けた陽子だった。
乱以降、時には連れが変わるが基本的に使令一匹のみを連れて復興途中のこの国をこうして回るのが常になっていた。そうして、そのたびに吐き出される溜息。
久々であったからそれがいつもより深い。
どこにでもこのような裏通りがあることは承知している。大きな国になるほど表とは反転、裏がより大きくなることも理解している。善悪が表裏一体であることと同じで街はそうして富んでいく。
だがわかっていることと納得することは別だ。
”主上”
「なんだ?」
陽子自身の感覚もこちらの世界に来てからの波乱万丈に鍛えられ優れてはいたが、僅かに使令の方が早かった。
警告に耳を傾けようと足を止めたところで。
――――――――――悲鳴が聞こえた。
高い声ではない。悪漢に女性が襲われているわけではなさそうだが、放っておけるほど陽子は大人しくはない。面倒ごとは避けるべきだが、見てみぬふりはできなかった。
あれかと問う言葉に是と声を聞き。
「行く。」
断言して駆け出す。
そう響くでもない悲鳴が聞こえるくらいだ。
その場所は遠くはない。だが剣剣戟の音はなく、一方的な暴行だというのが裕に知れた。
声から検討をつけた場所へ入りくねった路に舌打ちをこぼしつつ、曲がった角にそれらしきものを見た。
倒れている男が一人。それを囲むように男が三人。後者は剣を抜いている。
丸腰の相手に武器を持った男が三人というのはいささか大げさに過ぎる。
「何をしている。」
低く、問うの声をあげれば振り返る男たち。
問答無用で斬りかからないのは自信ゆえか、回避ゆえか。
妖魔でない相手を切り伏せるのは気がめいる。
もう慣れてしまったが、やはり血を流すのは好きではなかった。
「ちっ」
一般的に見ればおよそ強そうとは思えない陽子の出現に、だが男たちは舌打ちを一つ倒れた男をう一瞥すると。
「行くぞっ」
逃げてくれるなら幸い。追うことはしなかった。
追うよりも先に倒れた男に駆け寄る。
もともと悪漢退治というよりは人命救助のために駆けたようなものだ。
だが……
”主上。もう手遅れかと”
「分かっている」
転がる男の肩に手を掛け念のため傷を確認するに一瞥する。
掠り傷と痣はいくつもあるが深手だと思われるのは腹部だけで、陽子の見立てに反してこの男がそれなりに武術の使える男だということがわかった。
だが出血が酷く、そもそも衰弱が激しい。
その上の暴行に男の体は耐えられないようだった。
「おい。聞こえているか。」
もはや虫の息の男に向けて陽子は言葉を発する。
「言い残すことがあれば伝える。」
聞こえているかは分からない。だが何もせずにはいられない、陽子のそれができる精一杯のことだ。
力ない腕が持ち上がる。
指が腕に掛かる。
瞬間的な痛み。
ぎらぎらと瞳だけが僅かな時間輝いた。
「頼む。娘を……李琳を…」
言葉半ばで途切れる言葉。
それでも確かに。確かな。
掴まれていた腕が僅かな痛みをのこして自由になる。
そこで天命の尽きるのを見た。
‖ 続く