さらさらと動かす筆が止まる。
いつになく片付いた書卓の上にはそれでも未だ大量の書面と白い手習いのための紙がある。
多忙の女王にやることは尽きないのだけれど。
目をやった窓の外には求めるものは――――――ない。
君鳴く鳥の声聞く時にや
天気のいい午後だった。
堂室の中に一人、逃げ出さずに政務に励んでいた彼女は難しい顔をして筆を持った手を止めた。
ふ、と。
向けた視線が――――このところ事ある毎にそうするようになってしまったことを自覚する間もなく――――捕らえた物を理解して。
ぎくり、と身を強張らせる。
露台になっている窓の外、その桟に”手”があった。
いくら鷹揚な現王――――つまりは彼女だ――――の趣味でいくぶんかその警備は薄いが、かといって侵入者が容易くあるほど無防備でもない。そうであったら冢宰により厳しい叱責が下るだろう。
けれどそのような場所から入ってくるものなどまともな、金波宮の住人ではありえない。自分は除いて。
もしも、不慮の事故で落ちてきたのだったら。
もしも、王に不満あり命を狙うものだったら。
前者の場合ならば手を貸すべきだが、後者の場合を捨てられずしばし迷う。
音はなかった。ただ外の気配にずっと気を配っていたわけでもないので絶対とは言わない。
筆を置き、己の剣を引き寄せた陽子は椅子を立ち、窓の右壁に張り付いて息を殺した。
じりじりと桟を乗り越えてくるのを待つ。
開かれた戸の不慮の事故で辿り着いた者と言うには、その手にはあまりにも躊躇いがなかった。
思って腕を振り下ろしガツン、と何かに当たった剣の先。
まるで予想していたかのように受け止めた剣の先に、見た顔に手を見つけたときよりも猶ぽかんと口を開けて陽子は固まった。
「……えっ?」
その後は一瞬声にならない。
――――――利広!?
パクパクと口を動かすが、やはり無理。
予想外の事態には慣れているはずの陽子だったが、混乱するときは激しいらしい。
「やあ。陽子久しぶり。」
こちらは手荒い歓迎にも平気なもので爽やかに挨拶をしてみせる。
やはりそれにぱくぱくと口を動かし、なんとか言葉を紡ぎだす。
「忙しいんじゃなかったのか?」
「忙しかったんだけどね……」
当たり柔らかく苦笑して見せるのは、紛れもなくしばらく姿を見せないはずの男だ。
会いたいと思っていた。
だがまさか会えるとは思わなかった。こちらが公式の訪問でもしない限りは。
『忙しい、しばらく行けない』と知らせがあってから事実男が来る様子はなかった。その実情を表すかのようにそれ以降文一つ、ない。故に彼女も送ることはしなかった。
彼のしばらく、を唯人と同じ感覚で理解してはいけない。
少なくとも半年、長ければ数年を見なければならない。なにせ彼は流れたときが違うのだ。
しばらく家に帰ってないなぁ、で半年だったときには思わず鞘で突っ込みせっついた。すぐ、は確かにすぐだが――――そのとき一度奏まで帰って数日で帰ってきたときにはさすがに驚いた。証拠として土産まであったのに!
剣を突きつけたまま、ぐるぐると回る思考を一つにまとめようと四苦八苦する陽子に利広は苦笑する。
「陽子、私だと納得してくれたのならその剣を下ろして欲しいんだが。」
それとも歓迎はしてもらえないのかな?と問う男に慌てて鞘に収める。
納めたそれをさらに元あったように壁に納め、そこまでしなくても良いのに、と言う男に他に置く場所がないのだと答える。
その男の右の手甲に真新しい傷。先ほど彼女の剣を受け止めた時のものだった。
陽子はまじまじと見ておもむろにその傷に触れる。
「よく、それで受け止めたな。」
「うん。流石にちょっと怖かったかな。」
陽子の剣は慶国秘蔵の宝重である。
主以外が使えば藁一本とて斬れぬが、本来の主つまりは慶国王が持てば幾人斬ろうが切味の変わらぬ、呆れるほどの業物だ。いくら甲器をしているとて受け止めるのは危険が伴う。
動いたことでやっと落ち着いて陽子は手甲から本体である男へと目を移し、真面目な顔で問いかけた。
「それで。いったいどうしたんだ?しばらくは出てこられないとあなたは言っていたはずだが。」
一体彼が実家に帰っていた間卓郎君利広についてどんな話がされていたのか。
毒されていると感じさせる含みを感じる。
「別にこれと言った用事というわけでもないんだけれど……」
「じゃあ仕事を放って来たのか?」
呆れとも、叱責ともとれる発言は。
(やっぱり真面目だ……)
逃亡の常習犯ではあったけれど、雁と違うのがそれだった。だから官も彼女の逃亡をある程度は黙認している。帰宅後の小言は免れないけれど。
分かってやっているのか、天然なのか、彼女はそういった官との駆け引きが上手だ。麗しい主に彼らが甘い、という部分も多分にあるが。
「まあそういうことに……なるのかなやっぱり。」
「また延王みたいなことを…・・・」
似たもの同士め、とぼやく陽子に心外だ、と利広は返す。
「元々私は戦力外なんだ。」
「それはそれで問題だと思うんだが。」
それには無理に反論せずに受け流し、最初の問いに戻るべく利広は言った。
「会いたかったからね。私はそう我慢強いたちじゃないんだ。」
何をと驚いて探る顔の中にいつものように笑んではいるがどこか鋭い瞳があり。
飄々と、言われた言葉にだがそれはからかっている訳でも冗談でもないと知り。
私も、と陽子は言う。
「もし利広が来なければ会いに行こうかと思ったかもしれない。」
それは確かに寂しいと思ってくれた証拠で。
思っていたよりもずっと彼女は自分に思いを割いていてくれたらしいと知って嬉しげに笑う。
「それは上々。先に来られて良かった。陽子がうちに来ていたら大変なことになっていたよ。」
それはもう、色々な意味で、と。
男が快活に笑う理由を彼女は知らない。
そういえば、と何を思い出したかおもむろに今度は利広が問いを発す。
「鸞は来なかったかい?」
「鸞?いや……飛ばしたのか。」
見ていないが、と答えるとくつくつと先ほどとは意味合いの違う笑みが毀れた。
「利広……そういう笑いは止めてくれ」
気になると文句を言った陽子に笑ったまま横に首を振る。
「いや、私の方が早かったのだと思っただけだよ。」
「は?」
スタスタと回廊を進むものがある。
絹擦れの音と、靴が床を叩く音。
殺す必要のないその音を立てて歩く者が王の執務室たるこの堂室に向けてくるのを聞き堂室無内の二人は揃って扉を見た。
しばし待つその後、堂室の外で入る前に主に許可を促す口上に。
「主上、奏から鸞が届いてありますが。」
聞こえてくる無愛想な声は彼女の麒麟のものだ。
あまりにもタイミングの良い場面に外には聞こえぬよう男は小さく噴出した。
「多分、あれだろうね。」
こっくりとこちらも笑いを堪える様な顔をした少女が頷く。
「何を送ってよこしたんだ?」
「それは聞けば分かるだろう?」
それもそうだ、と。
外へ向けて陽子は入室の許可を出す。
滅多に聞けない慶国麒麟の巨大罵声を聞くまであと僅か。
了