手を放してはいけなかったのに。
悔やんでももう遅かった。すり抜けていってしまった手は戻らない。どんなに後悔したって時間は戻らないことを知っている。
ルークは知っているのだろうか?
一体どれだけの人間が時間を遡りたいと願っているか。
もし、俺が同じ時に戻れたのなら……そう思っていることも。
唇を噛んで俯いたまま助けを求める子供に動くこともしない。
その姿が全てを諦めているようで、思わず目を背けた。
見てみぬふり。何ができたかそれは分からない。出来ることなどなかったかもしれない。現にルーク以外の誰が何をした。
ルークを詰るだけで誰も何もできなかったではないか。
それでもルークなら、と思ってしまうのは酷い事なのだろうか。
ティアが提供してくれたベッドでルークは眠り、目を覚ます気配はない。
その様子に辛くとも目を離すんじゃ無かったとまた後悔した。
さらさらと髪を梳く。量も長さもかなりなルークの髪の毛は毎日手入れをしてやって保ってきた。この旅の中ですら。少しのそれは自慢だった。
ああ、それにしても魘されている訳ではなさそうなのがせめてもの救いだ。
コツコツと登ってくる足音に振り返ってベッドの主を見る。

「ガイ。あなたアッシュと行くって本当?」

どこか批難を含んだ響きに苦笑する。
ティアはルークの側に残る。それは別段ルークの為ではないかもしれないし、ただ単に自分の家に戻るだけということなのかもしれない。
それでも彼女は眠っているルークを見捨てて側を離れるわけではない。
目覚めたルークにしてみれば救いであるはずだ。だから安心して離れられる。

「ティア。君は魔界から外殻大地に上がるとき、どうやって上がるんだ?」
「え?」

困惑に瞬く少女から一度赤い髪の子供に目を戻す。

「きっとルークはすぐ上に帰りたがる」

次はセントビナーだと言っていた。
そして次がエンゲーブ。
聞き取れた情報は少ないけれど、ないわけじゃない。起きれば確かにルークは歩き出す。それは立ち直るとか、変わるとかそういった事ではなくて、唯単に繰り返しをしているだけなんだとしても。
だとしたら、それを助けてやるのが使用人兼友人兼親代わりの役目だろう。
ぽかんとしたティアの顔が面白い。普段は冷静沈着のクールを装って、どこかしらヴァンの妹であることを納得する雰囲気を持っていたが、こういう顔を見ると、ヴァンには似ても似つかない。歳相応の少女だ。

「あなた……ルークに愛想をつかして戻るんじゃないの?」
「まさか。起きたときに情報が無かったらルークだって動けないだろ?」

だから行くだけだ。話そうとしないルークの口を割らせる情報を手に入れる為、傷ついた顔をさせないために。

「本当にルークに甘いのね……」
「信じてるからな」

過去ばかり見ていても前に進めないと言ったルーク。
もう嫌だと言ったルーク。
責任から逃げたくないと言ったルーク。
賭けはおまえの勝ちだと言ったルーク。
いつだって俺の心を揺さぶってくれる子供。なんだってそんなに俺の決心を鈍らせるのが得意なんだ。
ってことで悪いが、勝ち負けを決めるのはお前じゃない。
(当たり前だろう?ルーク)
これは俺の賭けなのだ。お前の賭けじゃない。お前の命が掛かっているとしたって、それは俺の賭けの結果でしかない。
お前ができるのはただ、俺の心を揺さぶるだけだ。勝手になんて決めさせやしない。

やれやれといった風情でため息を吐くティアに苦笑を返す。自分でもまぁよくやるな、とは思うのだが。

「もうすぐおじい様も会議が終わるわ。アッシュたちももう向かうだろうし、あなたも行った方がいいわ」

気を利かせてくれたのか先に出て行ったティアに感謝して、もう一度だけ瞳を開けない子供に向き合う。

「またな、ルーク」

そしてそっと頬に唇を落とした。









タルタロスは無事に外殻と呼ばれた、ガイたちが世界だと思っていた場所まで押し上げられた。
原理もあまり聞いてはいなかったが、アッシュの言動には一応の注意を払っていた。
どのタイミングで口を挟むか。
この船が必要なのも、人手が必要なのも、アッシュも自分も同じで、けれど行き場所と目的が違う。

「うまく上がれたようですね」

ジェイドの発言に緊張を解く面々とは反対に緊張を走らせる。
行き先を決めるのは此処だろう。ジェイドは強い発言権を持ちながら先頭に立とうとはしない。
逆にアッシュは先頭に立とうとするだろう。ヴァンについて一番情報を持っているから発言権も弱くは無い。生来の傲慢さで自分の思い通りにするだろうことは想像に難くなく、反対しそうなメンツはイオンを危険に巻き込みたくないアニスのみだ。ナタリアは奴がルークであると知った途端に周りが見えないようだし、ジェイドも今のこの少ない情報の中では少しでも情報を得ようとするだろうし、イオンが此処で手を引くとも思えない。そして何より問題なのが客観的に見ればアッシュは信用できない人物でもない事だ。
思案が終わったのか、それともやはりこいつもタイミングを計っていたのかアッシュがさも決定事項のように一つ。

「よし、ベルケンドへ行く」
「いや、先にダアトに向かおう」
「なんだと?」
「別におまえは俺たちの指揮官というわけじゃない。おまえにも付き合ってやるんだからこっちの希望も聞いてほしいね」

自分の決定に反対されたのが嫌なのか眉を上げてあからさまに不機嫌そうな顔を作った奴に、こちらも投げやりに言って答える。

「ギブ・アンド・テイクだ」

無条件で付き合ってやるのなどルーク一人で十分だ。俺はそれほどお人よしではないし、暇人でもない。それが大嫌いな奴ならなおさら。
バチバチと火花が散るような、そんな攻防を一時。
ふいとアッシュが先に視線をそらした。

「ベルケンドが先だ。それが終わったら行ってやる」
「仕方ないね」

妥当な答えを得て、ひょいと肩を竦めて了承する。別に先に行く必要も、急を要する必要でもない。どの道アニスとイオンをダアトに送るだろうから向かいはするだろうが、そこにアッシュやジェイド、ナタリアも居てくれなくては困る。
皮肉気な色が出るのはもう仕方が無い。ナタリアには悪いが仲良くしろというのも土台無理な話だ。過去も今もこの男には含みがありすぎる。

「ガイっ!どうしてそんなに突っかかりますの」
「こいつは失礼」

ひょいと肩を竦めて流したのが気に食わなかったのか、ナタリアはまるでルークを叱る時のように柳眉を逆立てた。

「あなたはルークの従者で親友ではありませんの」
「ルークはルークでも俺のルークはあの馬鹿の方のなんでね」
――――でも、それなら七年間存在を忘れ去られていたアッシュは、誰が支えてさしあげれば宜しいんですの?それもわたくしやあなたのような幼なじみの役目だと思いますわ」
「確かにそういう考えもあるだろうな」

どちらがより可哀想かなど分からない。
だが。

「悪いが俺はそれでも全然かまわないんだ」
「ガイ……!?」

驚いたようにナタリアが目を見張る。元々の俺の目的を彼女は知らないのだから当然だろう。
ナタリアは純粋にアッシュを、過去のルークを慕っていた。でも俺は違うんですよと言ったら彼女は納得してくれるのだろうか。別にルークが気になるのはそれだけの所為でもないけれど。

「俺は正直昔のルークは好きじゃなかった。俺が何をしても使用人の癖にって顔で見てる」

傲慢なお貴族様そのもの。それ以外の何者でもない。
それが誇りか。それがおまえか。
可哀想ならそのまま可哀想な境遇で生きていればいい。思い知れ。
そう思う俺はあまり良い性格だとは言えないが、別段性格が悪くとも困りはしない。どうせこの辺りの面子ではそれも特別なことではないだろう。そのくらいでなければやっていけないかもしれない。

「きっと屋敷の連中は皆そうだ。多少子供っぽくても、我侭でも、俺たちは皆あのルークが好きだよ」

確かにルークは我侭だった。外に出たいといっては俺を困らせたし、アレが嫌だコレが嫌だと辟易させた。癇癪だってあった。
だが、俺が顔を見せれば嬉しそうに駆け寄ってきて、俺が剣の相手をしてやれば楽しそうに笑って、ヴァンが来るといえば何をおいても走り出す。そんな普通の子供らしさを誰もが愛していた。
――――俺も例外ではない。

「キミは違ったのかい?ルークがオリジナルでなければ好きじゃない?」
「それは……」

我ながら意地の悪い問いだ。それでも考えて欲しかった。答えて欲しかった。
そうでなければルークが報われない。あんなにも辛そうにしていたルーク。
もう、目は覚めただろうか?
不安がっては居ないだろうか。間に合うだろうか。
――――そんなに心配なら側を離れなければいいものを。

「お取り込み中すみませんが、そろそろベルケンドですよ」

ジェイドの一声に安堵したよいうにナタリアが行きましょうと促す。
まったく……
得られなかった答えに忌々しく思いながら、それでも何も言うことなく後に従った。



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