夜までにはオアシスに着きたかったのだが、結局夜を明かしてから辿りつき、僅かな休憩を取ってから、ケセドニアへはさらに二日の後に辿りついた。ゆっくりとしたペースはイオンのためだったけれど、それでもイオンはいっぱいいっぱいの様子でいつも辛そうだった。
振り返れば決して穏やかな笑顔を崩さなかったけれど、ルークたちですら辛かった砂漠超えが、体の弱いイオンに辛くないはずがない。
行軍が遅れていることを知っているから決して吐かない弱音と、無理をして倒れるという愚を犯さない、ぎりぎりの見極め。
イオンは凄いなぁと改めて思う。
イオンは偉大だ。俺だってまだ七年―――それは一回目の世界の話だけれど―――しか生きていないけれど、確かイオンはもっと短かった。それだけの命で、それだけの期間で、彼は肉体年齢相応かそれ以上に大人だった。
砂漠の町でもケセドニアは大分ましだ。
賑やかな喧騒は嫌いじゃない。段々と辛い場所が近づいてきていることを理解してなお嫌いじゃなかった。
「……っ……」
ぐらり。足元が揺れる。違う、揺れたのは視界だ。
それは別段体力がないとか、体が弱いとかそんなものからくる眩暈ではない。
確かに疲れてはいるけれど、イオンがしっかりと歩いているのに、健康体で剣術の稽古を趣味とするようなルークがいくら温室育ちとはいえ倒れるわけがない。
俺の顔色が悪いと言ったガイも、あれ以降は何も言わない。勿論イオンがいる手前、多少の調子の悪さなどを口に出来るわけもないが、そういった事実がそもそもなかった。
これはアッシュと回線が繋がった所為だ。その先にあるのは確か……
「……先に宿行こうぜ」
「何を言っているのです?ルー……」
振り返って説教モードに入ったナタリアの言葉が止まった。まだ日は高い。このまま領事館に行って船の手配に掛からねば。アクゼリュスの方々が待っていますのよ、とでも続けられるのだと思っていたら、代わりにまぁと繋がった。
「ルーク、どうしたのです!?顔が真っ青ですわよ」
ナタリアの甲高い声にふらり。
また足元が揺れる。頼りない感覚に首を振る。
「……なんでもぬぇーよ」
ガンガンと痛む頭はいつもと同じだ。立っているのも辛いけれど、顔色が変わるほどの痛みでもないはずだ。だから顔が青いというのなら、それはこれから起こることのためだ。
繋げるだけ繋げて、アッシュは会話をよこさない。今はルークの状況を見定めているところなのだろう。
「それより、さっさと宿行こうぜ。一晩くらいちゃんと休んだってバチは当たんないだろ」
「そうですね!イオン様のこともどうするか決めないと……」
アニスの同意にああ、と思い出す。
そうか、ずっと一緒だったから忘れていたけれど、元々アニスはイオンを捜しに付いてきたのだし、そのイオンも漆黒の翼に浚われたりしなければ、今頃ダアトに帰っていたはずだ。そうならなったことは一度もないけれど。
言い出した手前、先頭をきってスタスタと足を向けたつもりでも、実際はのろのろとしか体は動いてくれない。先に部屋を取っておこうと、ガイとアニスが追い越していく。
ティアとミュウが側で伺ってくるのが分かったけれど、それどころではない。
まだ大丈夫だ。問題なのは……
さらに強いピリリとした感覚に来た、と身構える。
――――オラ、どうした。そっちは宿じゃないぜ。
「うっ……」
繋がった会話と、体の使用権を乗っ取られた不快感で倒れそうになる。
だが体の使用権を持ったアッシュが地に膝を着くことを許してはくれず、精々立ち止まってゆらゆらとするだけだ。
気持ちが悪い。
―――――ははっ!いいザマだな。
「ご主人さま、大丈夫ですの〜?」
「ルーク、しっかりして」
大丈夫、とは答えられない。
それよりも離れろ逃げろとティアを左手で振り払う。互いの利き手が関係するのか、全く動かない右手よりも動かせた。
―――――その女に剣を向けろ。
(冗談じゃっ……)
―――――そうだ。冗談じゃねーよ。
(だから!そんなこと!!聞けるわけねーだろ!!!)
―――――はっ何処まで粘れるかな!
一際強くなった頭痛と気持ちの悪さを前に必死に抗う。
絶対に、絶対に、絶対に、仲間に剣を向けるようなことはしたくない。許せるものか、そんなことが。
「どいつもこいつも俺を操るんじゃぬぇーよ!!」
(俺は物じゃない!)
確かにレプリカで、アッシュには俺に対する何らかの権利があるのかもしれない。元々は一つの存在だから。
でも、でも、でも。
『卑屈反対』
『俺にとっての本物はおまえだけってことさ』
ガイはそう言ってくれたから。
俺は俺であることを、アッシュとは違う一人の人間であることを、被験者に従属する義務がないことを、俺は認めて立ったから。
思い切り振り上げた剣を――――振り下ろす。
「ルークっ!?」
ティアの悲鳴が耳に突き刺さる。でも大丈夫だよ、ティア。
まさかそんな行動に出るとは思ってもいなかったのだろう。ルークの意志に従って、それは深々と突き刺さった。
ルークの腿に。
痛い。痛い。痛い。
アッシュの意志でも、ルークの意志でもなく、肉体が苦痛に涙を流させる。
ああでもざまぁ見ろ。俺は俺の尊厳と自由を守ったのだ。
――――おまえっ……
俺はもう卑屈になっておまえに遠慮する時期は過ぎたんだ。
舌打ちを残し、回線が切れた。
それが意識を落とさせる解放だった。
物音と悲鳴をこの喧騒の中でも正確に聞き分けたガイは、慌てて戻ってルークが剣を振り上げる瞬間を見ていた。何かをするには間に合わない、その剣を止めるには遠すぎる位置でだけれど。
剣が突き刺さる。血が溢れる。ルークが―――――崩れ落ちる。
「どきなさい!!」
呆然とするティアを突き飛ばすようにナタリアが回復に当たる。流石は行動力と自愛溢れる王女様だった。剣を直接向けられたわけではないからかもしれない。
いつもは冷静なティアも流石に動揺しているようだった。
無理もない。
「癒しの力よ。ヒール」
黒いズボンが変色して、赤黒くなっていく。
大量の血は洗っても綺麗にはならないだろう。
最も切れていては洗って落ちたとしても無理だろう。これだけ綺麗に切れているから縫えないこともないが、どうしても引き攣れと糸の後が見える。
ああ、これはもう使えない。買ってやらないとと何処かずれた事が頭を過ぎる。
「どうしたんですかぁ!」
戻ってきたアニスの声で止まっていた時間が動き出した。
遅いと文句を言おうと意気込んできた少女は地に伏せた想い人と、周囲の重たい空気に一先ず文句を飲み込んだ。
唐突な変異はよっぽどのことでもなければ動揺しそうにないジェイドすら考え込ませていたらしい。露天の通りではないとはいえ、人通りも人目もあるこんな場所でいつまでも呆けていたとはいい晒し者だ。
「……説明は宿に入ってからにしましょう。ガイ」
運べと目配せに、立ち上がって下がってナタリアが場所を開けてくれた場所に屈みこんで、ルークの体を横抱きに抱き上げる。
ルークをはさんでその目の前―――ガイの女性恐怖症が発動しない程度に離れてはいたが―――にいたティアがポツリ、と。
「ルークは一体……」
立ち直ってはいたが、どこか呆然としたティアの呟きに首を横に振る。
誰からの答えも上がっては来ない。頭痛を知っていたガイにすら。
―――――答えることはできなかった。
***
二つあるベッドのうち一つに寝かされたルークは目覚める気配がない。
今は意識がないだけで、運び込んでからティアとナタリアの二人掛りでしっかりと治癒され、明日出発だとしても支障はないだろう……肉体的には。
「ルークの台詞から察するに、どうやら彼は何者かに操られていたようですね」
元々二人部屋だ。狭い部屋に全員を集めたからか、少々息苦しい。それだけではない重い沈黙の中で、ジェイドは誰が見ていても分かりきったことを口にした。
ルークの気がふれたとは思わなかった。そう思うにはあまりにも健康だったし、おかしくなるならもっと早くなっていただろう。そうしてプライドの高いルークが自ら失態を犯すとは思えなかった。なにより自分の身を張ってまで人の気を引こうとはしないだろう。
だからジェイドが言ったのは分かりきったこと。ではだれがどうやって、という場面になれば誰も何も言えなかった。
が。
考察が終わったのか、いつもと変わらないジェイドに挑むようにティアが問いを放った。
「ルークのこと、何か思い当たる節があるんじゃないですか?」
「……今は言及を避けましょう」
「大佐ぁもったいぶらないでくださいよぅ」
「もったいぶってなどいませんよ。ルークのことはルークが一番に知るべきだと思っているだけです」
「……ルークは知っているんじゃないか?」
組んでいた腕を解いて寄りかかっていた窓際の壁から離れる。
一歩、影の中に踏み込んで窓から差し込む光を背後にすれば、逆行が表情を隠してくれる。
「あんたの心当たりとやら、ルークは知ってたんじゃないか?」
ジェイドと違って確証のないことでも口にするが、これは結構な確信があった。
ガイの知るルークは酷く勉強が嫌いだ。常識的に知っていることでも知らないことのほうが多い。けれど取り残されることに、一人で蚊帳の外に置かれることは慣れているだけに敏感だ。ルークなら憶えるかどうかはともかく知りたがるはずだった。
けれど……説明したことがどのくらいあっただろうか。
もしも、どこかで聞いていたなら。
「ティアと屋敷から飛ばされる前は、もっと……」
「馬鹿だった?」
言い淀んだガイの言葉を、あっさりとジェイドが補足する。
そうだろう。有体に言ってその言葉は外れてはいない。
かつてのルークは聡明だった。子供とは思えぬ気概と王家に連なるものとしての自覚があった。貴族の自覚を持った貴族の子供。つまりは使用人ごときなど省みない冷徹さと、人を見下した目も持っていた。
だが、その代わりに彼は無垢さを手に入れた。それはガイを多少なりとも癒してくれたもので、彼を馬鹿だとは言い切りたくはなかった。
聡明だった子供を再び教育しなおすつもりは誰にもなかった。勿論歩き方を、喋り方を、食べ方を、ガイは教えたし、家庭教師もつけられた。
それでもいつか思い出してもとの聡明なルークに戻るだろうと、誰もがどこかで思っていた。つまり、知っていることなど教えても無駄なのだ、と。
「あ〜まあ……ルークの奴、とにかく可笑しいんだ。いくらまったく違う世界を見たとしたって、たった数日で変われる変化じゃない。それに……あいつ、ヴァンに怯えてたんだよ」
ジェイドが眉を顰める。
ティアも心当たりが無さそうに首を傾げた。
「怯えて?それはまた……むしろ随分と懐いているように見えましたが」
「ああ。実際懐いてたさ。けど、カイツールでアッシュが斬りかかってきた時があっただろう?」
「ええ、ありましたね。そういえば……あの時もずいぶんと落ち着いていましたね、ルークは」
何故か、そう意味深長にジェイドは笑みを深める。
彼とは対照的に、ガイはヴァンへの反応に気をとられていて、それはルークの剣術の腕が確かであることだと気にも留めなかった。実際ルークの唯一の趣味と言っていい剣術の相手をするのはもっぱらガイであったから、才能があることは知っていた。今は実践分の長がガイにあるけれど、こうやって外に出たならばあっという間に並ぶだろう。
驕るつもりはないが、謙遜をするタイプでもなく、自分がそれなりの腕であることは自覚していたから、素直にルークの力量を見定められた。
「ああ。アッシュに対してはあんなに冷静に対処したけど、ヴァン遥将の声を聞いて―――――震えてたんだ」
感動だとか、感激だとか、いわゆるプラスの感情で走る震えはあるけれど、あれはそういった類のものではない。
プライドの高いルークは怯えなんて隠そうとするだろうが、彼が張る虚勢は、他者を詰って自分を誇張させるものだから、酷く分かりやすい。
そのルークがあんな怯え方をしたのが酷く気に掛かった。
それに、思い出せ。
ルークが珍しくしがみ付いてきたのはケセドニアに向かう船の中のことだった。
記憶をなくして帰ってきてからは煩わしいほどにそうしてきたことも、もう今は昔のことだ。
船にはヴァンも乗っていたから、あれがヴァンに関わりがある可能性もあるというわけで。
「……確かにおかしいわね。ルークが今更戦闘に怯えるとは思えないし」
「そういえば……」
ティアの台詞にふと思い出して話を脱線させた。
「あんたらはずっとルークに戦わせてたのか?」
何を今更、と言う顔を二人揃って向けてきた。
「戦うすべがあれば、子供だって戦うわ」
「そうでなければ今戦力に数えていませんよ」
「仕方ないっちゃ仕方ないが……キツイねぇお二人さん」
やれやれとついこれ見よがしな溜息を吐いてしまった。死神使い殿はともかくティアには悪いけれど、それはどうにもルークが不憫だった。
元々、親善大使などというものは戦闘に参加しない。もっと大仰に騎士団が護衛して、よっぽどのことがなければ馬か馬車から降りないだろう。それが”良いこと”であるかは別の話だけれど。
「ルークは普通に育ったわけじゃない。ましてや軍人じゃない。屋敷の外じゃ何も知らない子供と同じだ。俺たちにとっちゃ常識と思えることでもあいつには違う。それに……人を殺すのが怖くない人間なんていないんだ」
「そうですか?」
「まぁあんたみたいな例外もいるかもな。あくまで一般論さ」
実際など知ったことではないが、”死体使いジェイド”その二つ名で噂される彼の逸話は色々と聞き及んでいる。そういうこともあるだろう。
「覚悟って奴が出来てるわけがないんだ」
「でもルークは……生きるためなら仕方がないって……」
それは貴方が教えたのではないかと戸惑ったようなティアの台詞に首を横に振る。
「俺は、いくら身を守るためでも、ルークが躊躇いもなく神託の盾兵に剣を突き立てたとき正直驚いたぜ」
今でも戦闘時は時々驚く。
ほとんどがモンスターであるからそれは本当に時々であるけれど、あまりにも躊躇いのない剣捌きは歴戦の者を思わせた。背中を預けても不安がない。
「まぁここで憶測してみても仕方がありません。ルークの不可解な言動は私も気になってはいましたが、どうやら本人も自覚があるようでしたし。今回のこととは関係ないでしょう」
「ま、そうだな」
ひょいっと肩を竦めるジェイドに、ガイも切り替えて軽く同意する。確かに分からないことをああだこうだ言っても仕方がないことではある。
「イオン様のこともルークが目覚めてからの方がいいでしょう。一応、彼が親善大使ですしね」
「……一応、ねぇ」
嫌味な言い方に口の端をほんの少しあげる。
確かに表向きのこの一行のリーダーはルークだが、実際取り仕切っているのはジェイドだ。それをイオンも分かっているのだろう。一歩踏み出して自分の意志を口にした。
「僕は……もしご迷惑でなければ一緒に連れて行って頂きたいです」
「イオン様!モース様が怒りますよぅ!」
「僕はピオニー陛下から親書を託されました。ですから陛下にはアクゼリュスの救出についてもお伝えしたいと思います」
「私としては異論はありませんね。アクゼリュスでの活動が終わりましたら私と首都へ向かいましょう。まぁそれもルークが目を覚ましてからの決定になりますがね」
そうは言ってもこれは決定したようなものだろう。
イオンを止められなかったアニスの肩がガックリと落ちていた。
「ではここに屯していても仕方がありません。解散としましょうか」
いつものどうにも憮然とするような、釈然としないような心持になりながら、ではとナタリアとティアが出て行くのを見送る。
最もなまとめ方だと思うのに、どうしてジェイドが言うとこうなのか。これもある意味人徳というものだと思う。
「あ、あの。ルークは……」
「ルークは俺が見てるよ。俺はファブレ家の使用人だしな」
ちらちらとルークを伺うイオンに安心させるように言う。
一人にしておいても心配はないかもしれないが、万が一また操られたらということもある。
「いえ、ですが……」
「イオンはしっかり休んだ方がいい」
「そうですよぉ〜本当に付いて行く気でしたらせめてたっぷり休んでもらわないと!」
「ですが、ガイだって疲れているでしょう?休まなければ」
「俺はこのくらい大丈夫だよ。疲れてるイオンや女性陣に任せるわけにはいかないし、かといってジェイドが見ててくれるとは思えないし」
「ははは。勿論ですよ」
いっそ爽やかなほどさっくりと肯定した男をど突き倒したくなったが、だが最初からルークを誰かに任せるつもりはなかった。
「イオン様、どうしたんですかぁ?」
「いえ……では、ガイ。よろしくお願いします」
なぜかイオンの心配そうな視線を受けて、首を傾げるままパタンと木製の扉が遮った。
――――その意味を知るのは翌日のことだったが。
眠ったままの子供の髪をゆっくりと撫でる。
眉間に寄った皺を見る限り、あまり心地よい眠りではないようだ。無理もない。
「お前は何を隠してる……?」
そっと首筋に伸びる手を見て苦笑を漏らす。
隠してるのはガイも同じだ。いや、もっと性質が悪いかもしれない。
黒い黒い感情。点々と黒いものがあるというのではない。むしろ黒いものの中にときおり光が差し込むような、そんな心。
殺すために近づいたはずだった。
「ま、俺が言えた義理じゃないんだがなぁ」
それでも、隠し事など許せるものではなかった。
回帰する星