From.Tear
▼一から数えなおして
それがなんであれ、数えられるのが当たり前だった。
例えばお金。数えられなくては生きていけない。
例えば人。把握しておかなければ困惑することがある。
例えばりんごの数。人数分なければ喧嘩なってしまう。
例えば……以下略。
とにかく、子供がお風呂に入りながらまず教えられるのだって数の数え方だ。初めは十までを覚えさせる。
私もそうして覚えてきた。
なのに……その常識を覆す人間が存在していたのだ。
私の常識ってなんだったのかしらと頭を傾げたくなる。頭痛など日常茶飯事。
別にそのことが初めてではない。
言葉遣い、態度、世間情勢、一般常識、抜けている事が多々あり、彼の非常識さには大分慣れたつもりだった。
けれど。
「おい!アップルグミ26個!!」
「……あなたどういう数え方しているの?」
ああ、やっぱり駄目だった。
これからのことを考えてエンゲーブで物資の補給をしようと思って手持ちのアイテムを並べたのはいいけれど、一向にはかどらない。勿論理由は至極簡単明快だ。
ふんぞり返った彼は、ほらよと数えた数と手の上の物を示すけれど、明らかに、見るからに、違う。
ああまったく……
買い物は任せられない。
だからせめて把握の手伝いをしてもらおうと思ったのに。
(どうして10の次が21なのかしら……?)
数の基本概念は分かっているようだからきっと集中力の問題だろう。
特にグミは小さいし、オレンジグミと選り分けていたら分かりづらい。
けれど。
「一から数えなおして」
付き返したアップルグミに、はぁ?と盛大に彼は嫌な顔をして見せた。
そんな子供のような反応にはめげずに厳しい顔を向ける。
「全然あっていないわ」
「そんなことぬぇーっての!だいたい数えてないのになんでんな事わかんだよ」
「見れば分かるわ。大体貴方、10の次が違うわ」
「あぁ?んなことぬぇーっての!」
「あるの。いい?私が数えるから貴方はちゃんと数と音で把握なさい」
手を添えて一つ、二つと進んでいく。
一応数くらいは数えられるようにしてあげないとと使命感を燃やした私は、近くにあった赤い顔なんて知らなかった。
足を止めた同行者に、なんとなくまたかと思って溜息を一つ。
「どうしたの、ルーク」
疲れたのかと思ってそれでもできるだけ優しく聞いたら、彼はただ空を見上げていた。
雲が時々浮かぶ、なんの変哲も無い青空。
どこまでも続く空は時折憎くなる。
早く終われ、そしてこの人の面倒を見なくてもいいように。
「空ってこんな風に見えるんだな」
「そうね……」
どことなく考え深げな声の調子に、早く行きましょうとは言えず、ルークに習って足を止めて空を見上げる。
彼の言葉に記憶が少し遡る。
「なんだよ。当たり前のこととか言わねーのかよ」
「私も、初めて見たときは似たような事を思ったもの」
「へぇ?」
意外そうな顔で見られて、そっと顔を逸らす。
――――空はこんな色をしていたのね。
そんなことを思った自分。
思えば切り取った空しか知らなかった彼にとってこの空はとても不思議なものだったのだろう。私が空の色を不思議がったように。
でもその時は分からずに。
行きましょうと足を動かした。
「綺麗な空だな」
立ち止まって、いつかのように見上げた空に彼は穏やかに笑ってそう言った。あの時と違って今は夕暮れ。赤い空。
空を仰いだ拍子に短くなった髪がぴょこんと揺れる。
どきりとした。
心臓が、跳ねた。
時折彼のふとした動作に鼓動が早くなる。
手を伸ばしたくなる衝動に気づいて、はっと直前で手を止める。
彼はぬいぐるみでも動物でも女性ですらないのだ。
簡単に手を伸ばしてはいけない。
いつもの調子を取り戻すのだと気づかれないように大きく息を吸う。
「そうね……貴方全身この空の色よ」
「俺の髪はもともとこの色だっつーの」
白い服は空の色を映して赤い。髪はもともとその色だ。
ああ、とても綺麗。
透き通ってなくなってしまうんじゃないかと思う類の綺麗さで、透明に、空の色を反射する。
きっとそれは心の色なのだ。私は彼ほどにこの空の色へは染まれない。
服が黒い所為だけではない。
白い、白い、心。無垢な人。
変わって欲しいと思ったのに、変わることを見ていると宣言したのに、変わらないでと祈るほど、茜色に染まった景色が恐いほどに綺麗だった。
二者択一の問題がこんなにも難しいだなんて思っていなかった。
世界か彼か。
そんな残酷な選択があってもいいのか。
そんなこと事体に疑問を持ちながら。
彼の決意は変えられない。知っているの……だって見てきたから。
彼が欲する存在意義をそれは見事に与えてくれる。
彼が欲する存在意義を私は与える事ができなかった。
存在意義など与えるものではない。
存在意義など人にとって必要なことではない。
ただ生きている、それだけでいいのに。
彼は納得しない。彼はやはり我侭で貪欲でどうしようもないお坊ちゃんだ。変わっていない。なのに変わってしまった。
望んだ変化のはずなのに、頭の代わりに胸がずきずきと痛んで。
私はただ願うばかり。
ローレライよ、ユリアよ。どうかあの優しい少年を奪わないで。
天高く上る光の柱。あれは彼の最後の力。最後の望み。
分かってしまう嘘。分かってしまう事実。
彼は決して帰っては来ない。帰っては来れない。
人魚姫は泡となって消えてしまい、彼は光となって消えてしまう。
そんなこと知っていた。嘘も、全部、知っていた。
だから伝えてしまった想いも、決して返っては来ない。
足がふらつく。脱出したあの大地へ、壊れていく栄光の大地へ、足は勝手に向かおうとする。
何かが、誰かの手が、私をずっと引き止めている――――彼の意思で。
そんな他人の手で感じ取った彼の思いが、彼の意思が、悲しかった。ああ、どうして彼はいないの。
覚悟していたから涙は出ない、そんな言い訳。
ただ、ただ、それは私の矜持。
いつでも冷静であれと課した私自身の誓い。
ああ、でも今は。
「雨はいつ降るのかしら?」
寒疣が立った手で必死に私を支えてくれる青年に、聞いたら。
「もう降ってるみたいだよ」
実の兄を手に掛けても零れなかった涙が落ちた。
配布元[鳥篭]