君と居る世界のために
べっとりと付いた血が清廉な白を汚す。
二股の、槍とも付かず、杖とも付かない武器は、自分の体力の無さと、譜術を使うことを考慮して選んだものだ。以前は使われなかったものだが、大丈夫。身を守るくらいできるようになった。
シンクはできるのだ。自分が出来ないはずがない。
自分は導師の身代わりとして選ばれた。能力の劣化が一番少なかったから。
多少体力が劣化してるといえど、その自分が出来ないはずがないのだ。
だから、生まれてすぐに訓練を始めた。
被験者イオンはお強かったんですよね、といえばヴァンもモースも渋い顔はしても何も言わない。
事実、オリジナルは武器を使いダアト式譜術を使い、ダアトの中でも屈指の使い手だった。
率先して前線に出るタイプでもなく、常に導師守護者に守られるから、彼がその腕前を披露するのは暗殺者に対してだけだけれど。
僕は自分から牙を剥く。
「ルークに何をしているんです、ラルゴ」
崩れ落ちる巨体から答えは無い。
呆然と見つめてくる優しい人に自然と笑みが上る。
剣を抜きながらも人は殺せない。間に合ってよかった。彼はとても怯えていたのだ。
以前は使わなかったこの武器は彼のために手に取った。
「大丈夫ですか?」
「イオン……!」
静寂に包まれていたその空気が動き出す。ささやかに促して。
壁に縫いとめられたルークを救い出し、手を差し伸べる。
「ご無事でしたか、イオン様」
「ええ。武器は持っていましたから」
ジェイドの確認ににこやかに答え、自分が居るはずではないポジションを、彼がいたポジションを取る。頭脳はジェイドだったけれど、中心に居たのはちゃんとルークだったのだ。
「では、行きましょうか」
さりげなく手を握ったまま、歩きだすが戦闘はジェイドとアニスに譲る。
繋いだ手の震えを感じられないほど鈍くは無い。
「僕が怖いですか?」
「そっそんなんじゃぬぇーよ!」
ただ、ともごもごと口は動いて。伺うような視線が向けられる。
怖くないのは諦めか、自信か、自分でもわからない。
仕方が無い?目的の為ならば。
彼に嫌われるはずがない?分からない。この彼はまだそこまでの好意を抱いてくれているか分からないのに。
「イオンは嫌じゃねーのか?」
嫌か、嫌でないか、答えなんて返せない。
ただ、そんな可愛らしい優しい問いを放った彼に笑みが上って。
「あなたは、綺麗なままで居てください」
不遜なまでに不器用な優しさがあるままで。
変わった彼も嫌いではない。でも、変わらない彼だってずっと優しかった。好きだった。その無垢さはジェイドやアニスを辟易させても、ガイをティアを和ませていた。ミュウが懐いたのはそんな彼だった。
本質は変わらない。どちらの彼も好きだから。
「イオン?」
「僕は、堕ちる所まで堕ちましたから」
再びあなたの前に現れたのは、ただ貴方に悲しい思いをさせないように。
貴方に出会うために。
貴方に道を与えるために。
貴方と、どうか。
もう一度生きられるように。
(そのためならどんなに堕ちても僕は立ち止まらない。)
宿でルークと同室を申し出ると、結構な確率でそれは叶えられる。
ルークはやはり優しくて、なんだかんだと言いながら聞いてくれるし、ガイは微笑ましげに眺め、ジェイドは勝手にしなさいと肩を竦める。
アニスもティアやナタリアと同室になることに否はでない。教団にアニスと同年代の少女はそう多くは無いから、やはり楽しいのだろう。
慣れない旅で疲れているのかスースーと寝息を立てるルークの顔を覗きこんで、時折寝言と笑みを零すような安らかな睡眠に安堵する。
守りたいのはその笑顔なんだと言ったら、きっと彼は馬鹿にしたように心配を押し隠して笑うんだろうと思う。
「違うか……」
その笑顔を見られるこの位置を無くしたくないのだ。守るためのこの命を使うわけにはいかない。けれどティアも無くすわけにはいかなくて。
(ティアが死んでしまったら貴方はまた泣きますね……)
ルークはとてもティアに好意を持っていくから。綺麗で優しくて厳しい。そんな彼女にルークはとても惹かれるから。
前の僕はそんなティアを助けることで、彼にずっと綺麗なまま覚えていてもらえる。
なんて打算的。
打算的な自分を隠し、綺麗な面だけを見せて死んだ打算的な僕。
でも今度は別の方法を取りたいと、それで笑顔を失わないようにしたいと思っている。だってこんな夢を見てしまったから。
「あなたは僕の夢なんです」
この世界で生まれたときから願った、思い続けた夢を抱きしめて呟く。
さあ、その夢を守るために動こう。
ルークとは違う、けれどアニスも大切な人には違いなくて。
ああ、いつからこんなに強欲になったのか。
「アニス」
「あ、どうしたんですか?イオン様」
ぱっと立ち上がって駆け寄ってきたアニスに、にこやかに宣告を告げる。
「茶番は終わりにしませんか?」
気付いていた。知らなくても気付くくらいにはアニスはとても上手くやっていた。
裏切りたくはなかったことを知っている。だからそれはギリギリのメッセージ。
優しいアニス。
本当の意味で僕の導師守護者は彼女だけだ。
「皆に話しましょう」
「何をですかぁ?報告したことに何かありましたっけ」
「僕はあなたが無為に人を裏切る子だとは思っていません」
聡い子だ。分かったのだろう。
ギュッと握り締めた拳が白くなる。背負ったままのトクナガの手が対照的にゆらゆらと揺れる。
痛々しいその姿にできるだけ優しく、脅えさせないように。
「アニス、僕はあなたが敵対することを望みません」
「イオン様……」
「けれど、ルークを泣かせる結果だけは引き起こしたくない」
緩みかけたアニスの表情が若干引きつる。
どういうことか、それが一体何を意味するのか。
少なくとも黙ってこのままでいることを容認するようには聞こえないだろう。
混乱のまま話を進めて行く事はしたくなくて、ぎゅっと握った拳に色が戻るのを、強張った肩が落ちるのを、待つ。
「イオン様はいつもルークルークルークですね」
「生まれたときから彼だけを思ってきましたから」
「熱烈〜」
怒る気も失せますねとどこか寂しそうに笑うアニスに真剣に告げる。
「アニス。貴方だけには僕は嘘を吐きません」
それは引き換えに出来る僕の札。それ以外は彼女に対して持てるものは無い。
ご両親の無事は、僕が保障するよりも確実に皆に話せば図れるだろう。お金ならいざとなればルークでもナタリアでもジェイドでも家の力を使ってでもなんとかしてくれる。無理でもモンスターというのは結構な金持ちなのかそれなりに落としていってくれるから仲間でなんとか賄えるだろう。
大体にしてモースが肩代わりしたというが、教会の資金ならモースではなく、最高権力者たる導師に権利があるはずだ。
それが例えレプリカでも。
「だから協力して頂けませんか?」
誠実に、真摯に。
そんな言葉を、それだけの言葉を。
裏打ちできるものなど持っては居ない。僕の奉げる目に見えない誠実さや真摯さと、モースの持つ金という目に見える脅迫とどちらが勝るかアニスに委ねるしかない。答えがでるまで待っている。
「イオン様が御命じになったこと、私が断れるわけ無いじゃないですか」
確かに報告はしていたけれど、アニスが命令を聞いてくれなかったことは無い。
それはできるだけ”イオン”らしい命令の所為だと思っていた。
けれど、それ以外でもいいのだとアニスの目は言っていたから。
「では、唱師アニス・タトリン」
「はい。導師イオン」
「モースには今まで通り情報を流して、オリバーたちの安全の確保とモースの信頼を維持してください。僕の言う嘘の情報を疑われない程度に」
スパイが居るならそれを逆手に取ればいい。
情報戦なら未来を知るこちらに分がある。ヴァンに踊らされているだけの男など敵ではない。だが、それをどうやって上手く使うか。ヴァンが使うなら使わないわけにはいかない。その道を選んだのはモース自身だ。同情はしない。良心の呵責も――――――ない。
殺された憎しみすらありはしないけれど。
ただ、ただ。
今居るこの位置を誰にも奪わせたりはしない。
え、と体がある感覚に首を傾げた。
やがて視界が晴れる。飛び込んできたのは硝子の向こうの天井。少し視線をずらせば見覚えはある、だが理解は出来ない音機関。
ここは、と呟く。
覚えがある。こんな風に硝子の中から見た風景。
「目が覚めたか」
そして覚えのある、声。
「導師イオンの最期の……七番目のレプリカ」
びくんと震えた体が目に留まったのか硝子の覆いを開け、覗きこんで来る男の姿を視界に捕らえる。それは見間違いようもなく、彼でしかありえない。
(ヴァン……)
やはり生きていたのか、と驚愕の中でどこか冷静に思う。実際に死を見届けていないからかもしれないし、創造主を異常に強者と見ていたからかもしれない。
伝えなければと思う。知らせなければ。
これは重大な情報だ。
だが、何故?
憶測でしかなかった彼が目の前にいるのだ。セフィロトのダアト式封咒も大地を魔界に下ろすときに解咒したから今は必要ない。導師イオンとしての役割も今果たしている以上に望むことなどありはしないだろう。計画の全容は知らなかったが、アクゼリュスでルークと同じく使い捨てられようとしていたことを思えば、今の自分に価値など―――――用などないはずだ。
「ふむ。設定はしていないのか。まぁ”導師イオン”が死んだような目をしていても困るからな」
蔑むような視線と、言葉を置いてヴァンは部屋を出て行った。
がらんどうな部屋は恐ろしいくらいの静寂と冷たい雰囲気が驚きに停止しかけた思考を機能させる。
この可笑しさを、既知感を疑え。状況を把握しなければ。
いい加減浚われて助けを待つだけなど、そんなお姫様をしていられない。
誰も居なくなった部屋で身を起こす。設定とはきっと、赤ん坊と同じ状態で生まれるレプリカに施されるパターン化された行動思考のことだろう。
レプリカに記憶はないが、行動パターンを刷り込むことは可能だった。現にあの時モースに従い側に居た兵士たちはそうして作られたものだ。前々から作り、教育していたのなら気付いたはずだ。お飾りとはいえ自分は”導師イオン”なのだから。
ふと既知感を探るために一つ一つ思い返したところで気付く。
設定しておかないと動けない。だが、設定をしていないと納得したということは。
(僕は今生まれたと言うことか……!?)
ありえない。だとしたらあの二年はなんだ。皆と旅をしたあの時間は。
だがレプリカが記憶を持っているわけがない。それもまた同様にありえないことだ。
何よりも僕は死んだはずだ。
だとしたらこれは過去だろうか。生まれたあの日。
見覚えのあるようなそんな朧な既知感はだからなのだろうか。
それともこれが黄泉の世界なのか。
それこそが最大の疑問であり目下の確認しなければならないものだと重い、見回した部屋の中にテーブルの上の果物に添えてあったナイフを手に取る。
ひたりと冷たい感触に怯えながら、もう少し力を入れて。
プチリ、と皮膚が裂ける感触がして熱さと色が溢れた。
「生きてる……?」
何故、どうして、これは一体なんだ。
血とは生きている者が流すものだ。死んだものに流れるものはない。
確かに覚えてる。
最期の瞬間、僕は優しい人たちに見送られて、役に立てて、泣いてもらえて。
幸せな死に方をしたはずだった。確かに身体は乖離して、消えてなくなる。空気と一つになった。その感覚を覚えている。
それが確かなら。
「時を越えて第七音素が還ったのか……?」
そうして出来る過程の自分に紛れ込んだ?
いや、いや、それでは時間を遡った事の説明にはならない。
例え第七音素が大量に使われ、少なくなっているのだとしてもそうまでして使われることはありえない。まして瘴気を受け取ったのだ。ますますもってありえない。
だがオリジナルの記憶である筈が無いし、レプリカのレプリカなど作れるのか。
わけが分からない。
いい加減に混乱して途方にくれる。
途方にくれて落ちた視線はぽたりぽたりと絨毯を汚す液体を追った。赤黒い染みは徐々に広がり、目立つようになっていく。
これは自分から流れ落ちるものだ。だからとにかく僕は今生きている。
それだけは確かだ。
世の中に説明の出来ない奇跡、力、事象。そんなもの沢山あって、これがその一つであると思っても問題はなかった。特にレプリカは途中で放棄され、中途半端に発展した技術だ。証明されていないこともいくらでもある。
そう。だから一番しっくりくる奇跡なのだとしたら、つまり僕という魂は時を遡ったのだ。
僕が一番楽しかったあの世界はまだ始まっていない。
綺麗な赤毛が翻り、運命的な出会いを果たすその日はまだ。彼が罪に押しつぶされるのもまだ。自分が死ぬのもまだ。
そんな奇跡がにわかに信じられてくる。
今が何時であるかヴァンに聞いてみるのもいいかもしれない。だが、急くこともないだろう。今が生まれた瞬間なのだとしたら出会うまであと二年。
待っていなければならない。それも良いだろう。
この肉体を流れる血が止まるまで、僕は生きていられるから。
焚き火を囲む野営の時間。
ルークがガイを連れ席を立ったのを見計らって腰を上げた。おそらく剣の稽古だろう。戦わなくてもいいのに、彼は稽古を欠かさない。
「ジェイド。ちょっといいですか?」
目配せにアニスも素早く立ち上がり、さりげなくジェイドの側に寄る。
トクナガはまだ大きくもないし、それほど逃がさないというオーラが出ているとは思わないのだが。
「物々しいですねぇ……」
「ええ、そうですね。真面目な話です」
ちらりとアニスを見、それ以上に僕に警戒したようなジェイドにニコリと笑う。
頭の良い、それ以上に察しのよいジェイドの事だ。そろそろ仕掛けてくるか、仕掛けるか、なんらかのアクションを予想していたはずだ。
「いくらモースが公権力を使い、預言によってキムラスカに働きかけているとはいえ、これだけ後手に回っているのを可笑しいと思ったことはありませんか?」
あなたがいるのに、と言外に含みを持たせて笑む。
ジェイドほど優秀な軍人が可笑しいと思わないわけが無い。アニスが怪しいということも、彼は既に気付いているはずだ。少なくとも以前のジェイドは何かに気付いていた。
「内通者がいると思ったことは?」
「……考えたことがまったくないとは言いかねますね」
「でしょうね……真実、モースに僕たちの行動は筒抜けです」
やはり気づいていたのだろう。ジェイドの態度に変化はない。
ただ冷たい視線が後ろに控えたアニスを見、ぶるりとアニスの肩が震えた。
分かっていてなお問いを放つ。
「ならば一番怪しいのは?」
やはり教団の人間だろう。そしてティアでは状況の把握と連絡、襲撃のタイミングが合わない。モースの部下であることが周知の事実である彼女に所謂スパイという活動は向いていなく、そもそもジェイドと共にバチカルへ向かうのはジェイドと彼の部下、それに僕自身とアニスだけだったはずだ。
カツン。
手にした武器が音を立てるとぴたりとジェイドの動きが止まる。たった二年。けれど彼らについて回ったあの経験は生きているし、二年間死ぬ気で修練を積んだ。彼らの強さを知るこの僕が。
一応ジェイドの動きを止められる程度の力は付けられたらしい。勝てるかは別として。
「勘違いしないで欲しいのですが」
脅えたアニスに大丈夫というように笑ってみせながら釘を刺す。
「僕は知っていて許容していました」
ジェイドの視線を自分へと戻すことに成功し、にっこりと笑う。
導師イオンという人間の重要性をジェイドは知っているから決して危害を与えはしないだろう。
「こちらの動きを教えるということは相手を操作できるということです」
「……怖い人ですね」
確かにそれは何人もの人を殺して得た武器だ。
死ぬはずだったと割り切るにしても確かに酷い話だ。その程度で躊躇う感情はとうに捨ててしまったけれど。
「そろそろ使って頂こうと思いまして」
「……どうして私に?」
何故話すのだ――――今になって。
敵をだますならまず味方からというのならばここにきて言う必要はないはずだとジェイドは知っている。
「ジェイドなら上手く取り計らってくれると思ったので」
「あなたがご自分でなされた方がスマートに物事が進むと思うのですが」
「そうですね」
だが、それには問題が一つ。
小さくて、けれどとても大きな問題が、一つ。
「ルークに聞かせたくなかったんです」
は?とジェイドが久しく見たことの無い間の抜けた返答を返す。彼にそんな顔をさせられるのは、あの皇帝陛下かルークだけだと思っていたが。
もう一度、とはその明晰な頭脳が邪魔をして聞けないのだろう。きっと言葉は頭に入っていて、理解を拒否しようと頑張っているのだ。
「仕方ないですよぅ大佐。イオン様ってばルーク熱愛なんですもん」
「……なんとも私には理解しがたい思考ですが……」
「そうですか?」
「わたしもーそれだけはイオン様の趣味を疑っちゃいますぅ」
頭痛がするとばかりにジェイドは首るし、アニスも口を尖らせているが、二人共人のことなど言えないことを知っている。今はまだそうでなくとも。
「ジェイド。僕はルークに知られなければ囮になっても構いません。モースは僕に惑星予言を詠ませようとするはずです」
「惑星預言を詠めば、その瞬間体内の第七音素が尽きて亡くなられるでしょう」
「ええ。分かっています。それでも僕はやる価値があると思います」
「イオン様……」
二人の心配そうな視線と、伺うような視線にニコリと笑う。
大丈夫、そんな不安も不信も不要だ。
「死ぬ気はありません。もう、絶対に……」
他者を犠牲にしてでも生きたいと思ってしまう理由がある。
貴方の為とは決して言えない、存在意義が彼だとしても、僕は僕のために生きている。
確かにルークが居なければヴァンの計画は成り立たない。
だが、ダアト式封咒を開咒できるのは僕だけだ。
シンクには無理だ。唯一能力の劣化が無かったからこそ自分がイオンとして扱われたのだから。
大丈夫。
意識をしっかりと持て。ヴァンにとって良い子である必要はないのだ。導師イオンであることが自分の存在意義ではない。
自分の意志を持て。貫け。
意義が必要なら持てばいい。目の前に居るのだから。
彼と生きる。彼と今度こそ共に生きるのだ。
「まずは第一段階……」
ラルゴの撃破、それによりすでにヴァンの計画は乱れている。
いくらヴァンがユリアの血縁でも、ダアト式封咒が施されている限り三重の封印を超えて近づくことはできない。
「ヴァン、あなたの良い様にはさせませんよ」
生まれて2年。いいように踊らされた。
最後の最後でルークに会うまできっと気付かなかったに違いない。製作者に利用され、製作者に不要とされ、製作者を倒した同胞。生きている意味を考え出して歩くことを躊躇っていた同胞。
”自分”というものが生まれたのは彼のお陰なのに、その彼をこの先の辛い運命へ落とす気はない。例え導師イオンとしての姿に沿わないとしても。
だからヴァン―――-今度は躍らせてあげよう。
「イオン様。タルタロスの奪回に向かいますか?」
「そうですね……」
一度目は奪い返すことなく去ったが、今は自分という人質も居ないし可能ではあるだろう。考える余地はあった。
だが……そうだ、アッシュが来る。
ジェイドも封印術に掛かっていない、アニスも居る、自分も戦力としてそれなりであると証明された事であるし、別段不都合が起きることは無いが、ルークを態々アッシュの憎悪に晒すこともないだろう。
「いえ、脱出を考えましょう。僕らは戦争回避という責務を負っている。迅速にバチカルへ行かなくては」
「足があった方が早く着くと思いますが?」
「ラルゴは倒しましたが、これだけの任務で六神将が一人である可能性は低い。無傷で済むかもわかりませんし、少なくともタルタロスが無事である保障はありません」
これだけそうそうたる顔ぶれが相対すれば周囲にかまってなどいられないし――――主に自分の力かもしれない。なんせ手加減をしながら楽に勝てる相手ではない――――壊れてしまっては足として使えまい。
「分かりました。では左舷ハッチに行きましょう。いざと言うときの保険があります」
「分かりました。この船はジェイドが一番詳しい。お任せします」
ルークの手をきつくなり過ぎないよう、けれど意識して繋ぐ。それだけが救いだった。
イオンであることから外れる恐怖から、人を傷つける恐怖から。
この手がある限り、この手をこの先もずっと繋いで行けるように、彼が泣く事がないように、僕は武器を取り反旗を翻す。
彼のように強くなっているかは分からない。元々体力が劣化しているし、ルークのような才能はないかもしれない。それでも願っているから。
少しでもその日が先であるように。
少しでも彼が重みを背負わなくてもいいように。
「エンゲーブには軍の駐屯所はありません。万が一巻き込んでしまっては自衛ができませんから、セントビナーに向かいましょう」
なぞって行く軌跡は若干の修正を加えていくうちヴァンの手を離れ。
全ては僕の手の中で踊る。
(「五の不屈の精神」より。配布元:リライト)