ざーざーと流れる、落ちて、行く。

水の音が聞こえるはずだった。

「どうした、ルーク」

汚い部屋の中で、それでも一応執務をする姿勢を見せていた
――――私室に持ち込んでまでしなければならない仕事が山ほどある――――部屋の主がペンを止めてこちらを見ていた。
唇が動いたのが分かったけれど何を言っていたのかは正直分からない。

「……」
「ん?なにか面白いもんでもあったか」

また何かを言われても、喋れない、俺は。
音が認識できなくなった。会話ができない。
声の出し方も忘れてしまった。
怖くて喋れない。怖くて聞こえない。
怖くて、恐くて、こわくて。
認知することを拒絶した。
無知をあれだけ悔やんだのに、知ることを恐れる、逃げているだけの弱っちい俺。
結局変わるだなんて決心は、口先だけだったのかと思ったし、ティアに思われたかもしれない。けれどどうしようもなかった。
ヴァン師匠を止めて、しばらくは実家に居て、そうして。
そこで俺はレプリカという、人間以外のものであるとしか見られないことを知って。
旅を再び始めてからだった。大切な、重要な、旅になることは見えていたのに。

『俺がしばらく預かろう』

そう言って差し伸べてくれた人は、筆談を時にはするが、ほとんど放っておいてくれる。
けれど一人にはしないでいてくれて、こうやって気遣ってくれる。
忙しい……はずの、皇帝……なのに。

「ん〜そうして俺の可愛いブウサギたちに囲まれてるとほんと微笑ましいなぁ」

ペンを止めたままニヤニヤと向けられる笑顔に、ぎゅっと側にいたブウサギを一匹抱きかかえる。視線は陛下に向けられたままだから、名前は分からなかった。できればルークかネフリーがいい……心情的に。

「なにが恐い?」

また、陛下が何かを言う。
だから殊更抱きしめる腕に力が篭って温かい。
ブウサギは温もりをわけてくれる。
邪険にしても一身に慕ってくれた生き物の温もりを思い出させてなんだか安心した。
ブウブウと言われたって認識できないから聞こえていてもいなくても関係ない。
今ならミュウもそれほどウザく感じないだろうか。
ああ、でも意思疎通ができたはずの生き物と会話ができなくなるのは寂しいか。
だってとても辛そうに、ティアの腕の中から見ていた。

「ルーク」

じっと追っていた視線は唇の動きを読む。
読唇などできはしないが、それだけはやっと覚えた
――――自分の名前。

「音の無い世界は楽しいか?」

分からない、その意味で首をふる。
けれど、分かっているはずなのに陛下は喋ることを辞めない。

「俺は早くおまえの可愛い声が聞きたいな、俺の可愛いルーク」

呼ばれる名前しか分からない、それでも。

すみませんとどこかで謝り、ブウサギを抱いた腕に力を込める。
分からないけれど多分、声を音を求められているような気がして。
でも俺は恐いことの他にもう一つ。

ガイよりも乱暴に撫でてくれるその手が今はとても心地が良くて。
分からない恐怖を感じないくらいにとても温かくて。

ごめんなさいでもどうか。

「(もう少し、ここに置いてください)」

出ない声で唇だけがそれを綴った。
抱きしめたブウサギだけがそれを聞き分けたかのように頬に鼻を押し当てて、分かってなどいないはずの陛下はそっと頭を撫でてくれた。



世界