ランアウェイ:
冷たい壁を背にする。
弾む息を整えて、次に走る瞬間を待つ。大丈夫。大丈夫。まだ走れる。走らなくちゃ。
立ち止まったらもっと冷たいものが待っていることを知っている。
「大丈夫だ」
声は硬かった。
私の手を引いて走る、その足は速かった。
声は優しかった。
その手の温かさに安堵していた。
アルトの息はもうすでに整っていた。早い。悔しい。
私は……もう少し。
アルトは男だもの当然よ。アルトはパイロットだもの。当たり前だわ。
(でも、アルトはただの一般人なのよ)
グレイスやSPとは違う。分かってる。
私を守る義務なんてなくて、ただ巻き込まれただけの一般人。宇宙に戦闘に出るパイロットを一般人と言っていいのか疑問だけれど。
「大丈夫だ。俺が……」
言い淀んだ。
言い切ることに躊躇いを覚えた声が、それでもきっぱりと次の台詞を紡いだ。
「俺が守ってやる」
決して言わなかった一言。
きっとそれは今までの状況がアルト一人の力でどうにかなるような事態と思えなかった事が一つ。自分の生死すら危うい、どうにかなるような術を持っていなかったから安易なことを言わなかった。
そうよアルトはそんなに余裕のある人間じゃない。
バカね。
笑っていらないわとその言葉を付き返す言葉を口にする。いつもと同じ。いつもの台詞。
「私を誰だと思ってるの」
ぐいと顎を上げろ。傲慢に、傲然と。
毅然とした態度で、恐怖なんて感じていないわという顔をしろ。
女王様と呼ばれるような、そんな調子で。
「私はシェリルよ」
「だから今こんな状態なんだろうが」
分かってんのかとアルトが言う。
分かってるに決まってるじゃない。私がシェリルだから。私の歌が、私の知名度が、アルトを今こんな事態に巻き込んだ。
分かってるのよ。分かってるから言うの。
むっとした顔をネクタイをぐいと引き寄せて、デコピンをお見舞いする。
顰めた顔さえ綺麗で、ムカツク。
この私が、シェリル・ノームが嫉妬するくらいに綺麗な顔に無性に腹が立ってもう一つデコピン。
「これは私の、シェリルの問題なの。らしくない事言ってないで黙ってなさい」
「はっおまえこそらしくないこと言ってるんじゃねぇよ」
反論に噛み付こうとした口を両手で抑えられる。
「もごっもごもごっ」
「おまえの声響くんだからちょっと声落とせっ」
ばれたらどうする。
背を預けた壁から離し、ちらりと来た方角を伺う。よし大丈夫だ。アルトが安堵で肩を落とす。それから無理やりその手を引っかいて振り払ってぐわっと噛み付く。
「なによっまだ何も言ってないでしょう」
「そうやって噛み付くの予想済みなんだよっつーかだから声でかいんだよ」
なによなによなによなによ。
いつもなら決してアルトごときに言いくるめられることなど無いが、声の大きさについて指摘されれば口を噤むしかできない。
歌手の声が小さくてどうするの。響かなくてどうするの。
ギロリとにらみつけるとげんなりとした顔かと思えば、真面目な顔でアルトは私を見ていた。
「おまえならこういうときいつだって俺のこと奴隷扱いで命令口調で使うだろ」
らしくない。
さっきの言葉の続き。この状況でそれを言うの。言って欲しいの。
「ここでいつもみたく言われたって見捨てやしねぇよ」
決定打だ。
私が何を恐れているのか。私よりもアルトは私のことを知っていた。
一人でこの状況を何とかすることは難しい。最後まであがく。大丈夫だって信じて行動する。だけどだけどだけど。
恐くないわけじゃない。
ああ、もう。
プライドで固めていた境界を切る。にんまりと笑顔で。
「ふ〜ん。なら奴隷君」
「おい」
「なによ。アルトが言ったのよ」
「言ってねぇよ!」
言ったも同然じゃない。なによ諦めの悪い男。
でもそんな反応が嫌いじゃない。
「私を守りなさい」
はいはいと仕方が無いような返事。それだけで大丈夫かもしれないと思うほど私は楽天的ではない。
けれど。
それだけで、強く笑えるだけの力が戻ったことを自覚した。