Passi dell'inferno
- 地獄の足音 -
01/地獄に堕ちると信じるのは怖かろうに 02/お前が本当に神様に憎まれているなら 03/震える指を握る手さえありゃ 04/かみさま、かみさま、どうぞお願い 05/わたしの天使を連れてかないで |
お題:こっち向いて
(配布元/フルッタジャッポネーセ)
地獄に堕ちると信じるのは怖かろうに:
重厚な空気で満たされた部屋に落とされたのは深い溜息だった。重厚な空気を作る、マホガニーの机の向こうで黒い豪奢な椅子に納まった人は、物憂げな顔で手にした紙をまた一枚捲る。
ほんの数分前、自分が手渡した資料は分厚い。十分すぎる証拠が挙がっている所為だ。
「うわーよりにもよってなんでこんな地獄に堕ちそうな道、選ぶかなぁ」
本当だ。十代目の手を患わせやがって。
離反は予想のうちだが、一番性質の悪い方向に行きやがるのは嫌がらせだろうか。いや、考え方がボンゴレに合わなかったから離反となったのだが。時代の流れとやらに捕らわれすぎなのだ。
つまりあれだ、麻薬に手を出した。
ボンゴレは麻薬は禁止しているし、特に十代目は麻薬なんてものはお嫌いだ。地獄は地獄でも生き地獄を味わった後に地獄行きが決定するだろう。むしろ地獄の方が助かったと思う程度のことはしなければ気がすまない。
「神様の名前使って麻薬売るなんて本当罰当たりだよね」
そう。十代目が可憐な唇から溜息を吐く最大の原因。
今のご時世麻薬のトラブルなんて掃いて捨てるほどあるが、厄介なのはそこだった。マフィアだけならともかく、教会関係が手を出しているのだから世も末だ。
逃げた先がまた面倒な土地柄でもあって、心底面倒くさい。
「まぁ地獄の使者が十代目なら喜んでいきますよ」
「げっ俺だったら死んでも死にきれないなー」
「そりゃそうですよ。十代目はご自分にお会いにはなれませんから」
「そういう意味じゃないから……」
がくりと肩を落としたこの人が言っている意味は当然分かっている。
そんな軽口を意図的に交わせるようになるくらいには成長したということだ。昔は、察する事ができなかった十代目のお言葉も、今は分かってその上で己の意見を伝えることにしている。
――――分かっている分、性質が悪いと言われる事があるが。
「まぁどの道こんな世界じゃ地獄行き確実ですからね」
マフィアで天国に行けるとしたらこの人くらいだろう。それだって確約はきっとできない。
マフィアというものはそれほどに手を汚している。
「俺だったら十代目に下して欲しいですね」
死ぬ時は十代目を守って死ぬか、その手で死にたい。
最後に見るものはこの方であれば最上。
そうでなくても十代目のために死にたい。この人よりも後に死ぬ事はありえない。
「だいたいさ、地獄って針の山と血の海で出来てるんだよ!そんなとこ堕ちるって信じるの怖いだろっ」
「だからこそ死ねないんじゃないですか?」
「嫌な世界だね」
げんなりと、そんな世界のしっかりと住人である十代目はおっしゃった。
自分だけは違うと、そんな考え方ではないのに、この方は己を中に入れない。
それがまるで全てを超越しているかのように、俺には感じられる。ご本人に告げれば、単に考えてないだけだよと微笑まれるのだが。
「まぁいいや。獄寺君、君に向かってもらう事になると思うけど」
妥当な選択に了解の意味を込めて頷く。
こういった少しやっかいな交渉ごとには己が一番向けられる。他の面々よりもイタリアの習慣やマフィアの考え方を知っているからだ。
特に今回は宗教という国柄がよくでるものが絡んでいる。
日本とイタリアでは宗教観がかなり違う。多神教なうえに儀礼的な場面以外に祈る習慣の無い日本に対して、こちらは熱心なキリスト教徒が多い。俺としては特別な信仰はないが、日本で育った奴らよりも理解はできる。
「すぐに締め上げてきっちり落とし前つけさせますっ!」
たとえ厄介な事柄だったとしても、ボンゴレにとっては押さえられない事柄でもない。
ヴァチカンを相手にするならともかく、高々小さな教会を相手にするくらいだ。なんてことはない。
だから大丈夫だと思った。
不安なことなど何もなかった。
▼
お前が本当に神様に憎まれているなら:
コツリ。磨きこまれた床が歩くたびに音を立てる。
ボンゴレの絨毯が敷かれた屋敷では聞こえないような音だ。五月蝿いようであれば消すことなど簡単ではあったが、あえて消さずに態と音を立てるように歩いた。
それが、地獄への足音に聞こえるように。
教会なぞあまり縁のない場所だ。
俺は神は信じない。
といっても無信教な訳じゃなく、こてこてのキリスト教徒ではないというだけである。神にではなくとも祈る事はある。
城を出てからミサなどに参加した事はない。当然、教会になど入っていない。
日本であれば普通なことだろう。だが、イタリアはバチカンを内包しているだけあって、熱心なキリスト教徒の人口が多い。
けれど俺は知っている。
空想上の神様など、人を助けちゃくれない。
「お祈りですか?」
白い服を着た神父が来訪に反応して笑顔を向けてて来る。
柔和な笑顔を振りまいているが、この笑顔の裏側でマフィアと結託して麻薬なんぞを売っているのかと思うと反吐が出る。
教会の運営に金が掛かる事は理解できるし、昔ほど金持ちの庇護が得られなくなって運営がきついことも分かる。
昔ほど、宗教に力や財を示すような価値は無い。
「別に祈りに来たわけじゃねーよ」
「ではどのようなご用件で?」
強面の黒いスーツに身を固めた男にも怯えた様子がない。驚きすらない。
これは慣れていると見て取るべきか、はたして人間性と取るべきか。
教会の人間には二種類居ると思っている。
一つは神様の御力というやつを自分の力と勘違いして上から人を見下しているタイプ。
もう一つは人間には善人しかいないと思っているタイプだ。自分の価値観を押し付ける行為でしかないけれど。
前者はは問題外だが、後者もなかなか面倒だ。
ぐるりと狭い教会内を見回す。
この教会に居る人間はどうもこの神父一人らしい。勿論裏に手伝いはいるだろうが。
だとしたらどちらの人間だとしても、黒であることに変わりは無い。ボンゴレの情報網にあれだけはっきりとした結果が出ているのだ。話をつけるべき相手はとりあえずのところこの男だろう。
「マギを知ってるな」
「星見……いえ、天文学者ですか?それとも魔法や超常の力という意味で?」
「とぼけんなよ。マギってのはお前らが売り出し中のブツの名前だろう?」
「――――存じませんね」
眉を顰めて不可解な顔をし、首を傾げてみせる。少しの時間は考える間であるかのように不自然な様子は無い。だが、こういった場合にあっさりと肯定する人間もいないだろう。
教会がやることとしては、あまりに外聞が悪すぎる。
「しらばっくれんじゃねーよ」
「と申されましても……ここは見ての通り教会です。人が神に祈り、必要であれば神の教えを説き、罪悪があれば告白を受け罪を許す場所。ものを売るなど……」
「まぁ、いい。俺のこれは最後通告だ。どこの誰が食いつくか、手ぇ出したんなら分かってんだろ?」
「ですから……存じ上げないと……」
「ボンゴレは麻薬を許さねぇ」
名を出すことは、諸刃の剣ではある。
牽制にはなるが、狙われることにもなりかねない。
だが、この場合裏もしっかり取れている。関わりのある組織はみなボンゴレに敵う相手でもない。名前でビビってくれるのが一番良いが、牽制になればとりあえずのところはいい。
普通ならダイナマイトを一発ドカンですむが、教会相手にそれをするとこっちの外聞が悪くなる。
土地での評判を落とす事は避けたい。だが、教会というものは本来神聖で善良なものである。たいしてマフィアというものは常に黒い噂が付きまとう。それが事実無根なわけでもない。故に人は教会とマフィアの争いがあればマフィアが悪と思う。
だから今回は厄介なのだ。
「それだけだ。邪魔したな」
きびすを返そうと体を反転する。
けれども一歩踏み出す前に引き止められる言葉が掛かった。
「ならばせっかく教会にいらしたのです。主の御言葉をお聞きになられるといい」
「神様のお言葉とやらを使った説教なんざいらねーよ」
聖書の言葉は全て覚えている。
きっと、そこらの神父よりもよっぽど詳しいだろう。その中身の捕らえ方がどれくらい神父に正しいとされるか分からないが。
俺にとって聖書は単なる文字の羅列だ。つまらない読み物でしかない。
「では、私から忠告を一つ」
「はぁ?」
そんなもの、もっといらねーと答える前に神父がその言葉を音にした。
「足音をよく聞きなさい」
「足音だと?」
嫌味かと顔を顰める。
人がわざわざ足音を立ててやってきたことに対する嫌味ならなかなかいい根性をしている。回答によっちゃ爆破してやろうか。
「そう、地獄から足音が聞こえてくるのを聞き逃さないようにお気をつけなさい」
「はっ。そんなもん一々意識して聞いてるようじゃ命がいくつあっても足りやしねーよ」
「おやおや。あなたはずいぶんと罪深いお方のようですね」
くすくすと笑う、人当たりの良さが却って不気味に見える。
(なんだこいつ……印象がずいぶんと変わるじゃねーか。こんなんで信者なんて釣れんのか?)
警鐘が頭の中で鳴り始めた。だがそれに従う前に目の前の神父の唇の端がニィっと吊り上る。
「お前が本当に神様に憎まれているなら……思い知るよ」
「っんだと……!」
襟首に伸ばした手はするりとその軌道から外される。
その白い司祭服に触れることなく。
「早くお帰り。君の”かみさま”が待ってるよ」
柔らかく、柔らかく、微笑む。
薄ら寒い、その笑みに不覚にも凍りついたよう動けなくて、拳をぶち当てる事ができなかった。
*
「なんだ右腕はどうした?」
入ってきて早々そんなことを言った兄弟子にあははと苦笑が返る。
まずそこなんだ。確かにいつもならにらみを利かせている獄寺君がいなくて、別の護衛が背後に控えている状態は変なのかもしれないけれど、それを指摘されるほど俺って一緒にいるのか獄寺君と。
意識してそうしているわけじゃない。実際、一緒に居る事が多いのは分かっているし、必然でも希望でもそうなるけれど、山本やリボーンだって同じだ。雲雀さんも何気に結構会うかもしれない。
なのに言われるのは獄寺君。
仕事の都合上か、はたまたディーノさんの獄寺君印象なのか分からないけれど、いないことに違和感を持たれるというのはよっぽどだ。護衛なんてそのとき都合のあう人がしてくれるもので、いつもいつも同じとは限らない。
「獄寺君は今日は教会に行ってます」
「へーあいつもミサなんて行くのか」
「そうじゃなくて……」
ああ、とそれだけでディーノさんは分かったと頷いた。理解が早くて助かる。
さすがディーノさん。キャバッローネも情報は掴んでいるらしい。
「あいつで大丈夫なのか?」
多分、出会った頃のとんまな印象が強いのだろう。
……あー違うかも。現在進行形の印象か。
ディーノさんの獄寺君像がありありとその一言で分かってしまって生温かい視線を空に向ける。
確かに普段の獄寺君にデリケートな交渉ごとを任せようとは思わない。
なんでもダイナマイトで解決させようとするところなんか本当に交渉ごとには向いていないし、すぐに噛み付くところなんかは弱点にしかならないだろう。頭の要領やら回転がいいだけに勿体無い。
だが、ここはマフィアの世界で、最後は力だ。押し切るしかない。そして、俺の見ていた獄寺君が全てではない事を今はもう知っている。
「俺が居なければ有能ですから」
感情を殺すことも、無表情の下に隠すことも、獄寺君は本来得意ではなくとも苦手ではないはずなのだ。
山本の笑みとは違う。獄寺君はその不機嫌そうに顰めた顔で表情を殺す。いつも不機嫌というポーズは、人の顔を険しくさせ、人を近づけない空気を作る。その物騒な空気は力がモノをいう交渉ごとにはもってこいだ。
そうでなければどうしてマフィアなんて世界で幼少から生きてこれる。
「確かに今回はちょっと厄介ですけど、うちだと獄寺君以外には難しいと思いますよ」
俺でさえも。
なんせ宗教観の違いは、未だもって慣れない。
▼
震える指を握る手さえありゃ:
嫌な予感がした。
十代目のような超直感なんて持ち合わせちゃいないが、それでもあの神父の言葉は酷く胸をざわめかせた。
日本には虫の知らせという言葉がある。
十代目の変事に気付かないまぬけにはなりたくないが、これがその虫の知らせというものではないことを祈った。
滑る様に夜の田舎道も街中も疾走した愛車を自分の駐車スペースにつっこんで、取るものとりあえず降りる。
少しずれたかもしれない。いつもならピタリと左右の幅も同じに止めるし、前後もきっちりバランスの取れた美しい止め方を一発でするのだが、この少しのあせりの所為か。しかも車をあたまから突っ込んだ。出て行くときに若干気をつけなくてはならないだろう。
「ご苦労様です」
守衛の声を受け、頷く事で挨拶としながら屋敷に入る。
この時間ならまだ十代目はお休みになられてはいないだろう。今日の予定は確か跳ね馬との会談があったから、書類関係も溜まっているはずだ。十代目のスケジュールは全て把握している。なにかあれば連絡もあるはずだ。携帯の電源は入っている。
わりあい早くから持っていた携帯はたとえメールだとしても気付かないということはない。
『ついつい忘れちゃうんだよねぇ……』
昔、携帯を買われても返事が無くてすわ何事かと十代目の御宅までお伺いしたことを思い出す。返信がこないと落ち込んだものだが、それでも行動は変わらないのだから別段問題はなかった。
(そう、だから、今も。連絡がないのは何もない証拠だ)
言い聞かせて息を吸って吐いて、ノックを二回。逸る心があったとしても、人としての礼儀は忘れてはならない。敬愛なる十代目、その人に会いに行くのなら尚更。
「入って」
いつもの柔らかなお声にほっと安堵の息を吐く。
安堵する自分に少し腹が立つ。たったあれだけの言葉でなにを不安に思ったというのか。
「失礼します。十代目、獄寺隼人只今戻りました」
「獄寺君!」
驚いたように目がまんまるに見開かれてからふわりと笑う。おかえり、とそして言ってくださった。
(ああ……十代目だ。大丈夫、だ……)
酷く心が和らぐ。声だけでなくそのお姿を目にしたことで安堵以上の感情。
来てよかった。嫌な予感は当たらなかったが、それでも意味はあった。お会いできて幸せだという、この心の温かさがその証明。
「今日はそのまま休んでくれてよかったのに」
「十代目がお仕事中なのにそんなことできませんよ。それに今日はまだ十代目にお会いしてませんから」
「あーうん、そう……」
十代目はどことなく肩を落とした。お疲れなのだろうか。今日の仕事はお一人にお任せしてしまったが、何か問題がまぎれていたか、それとも何か事件があったか。
(……後で聞いとくか)
十代目に直接聞いても大丈夫だとやんわり流されてしまうだろうから部下に。最悪山本に。今日は多分一日本部に居たはずだ。
とりあえず報告をするのが先だろう。
「マギの件ですが教会の方には話をつけてきました」
「ご苦労様。反応はどうだった?」
「さすがに肯定はしませんでしたが、しらばっくれらんねーとは思ったみたいっすね」
突然の豹変、あれはそういうことだ。きっと、つまらない脅し。
そんなものに怯んでしまったのかと思うと酷く情けなくて腹が立つ。戻ることに否やはなかったとはいえ、すごすごと帰ってしまったなんてとんだ笑いものだ。
「あとでもう一度行ってきます」
今度は絶対に退いたりはしない。例え実力行使になったとしても。
できれば避けたい事だが、目的はマギの販売ルートの殲滅だ。もっと言えば麻薬の撲滅であり、ボンゴレの武力的権威は落とせない。
破壊と殺人を悲しむ十代目もそれが分かっているから最終的には任せると仰ってくださっている。
うん、と頷いて幾分か話を詰めた後、十代目がふいに首を傾げた。
「獄寺君、どうしたの?」
心配そうに覗き込まれてギクリとする。
そんなに動揺しているだろうか。
この情けない有様をこの人に見せたくは無かった。いつだって頼れる有能な右腕でありたかった。
――――今更であるかもしれないけれど。
情けないところなんて散々、それこそ出会いのときから見せている。
救ってくださったのは十代目だ。
みっともなく失敗したところも、上手くいかなかったことも、不覚をとって倒れたところも、土下座した姿も見せている。
「教会でなんかあったの?」
差し伸べられた手は俺ほどごつくはなく、けれども女ほど柔らかくも細くも無い、骨ばった手だ。それでも一番触れたいと願う手が優しく包む。
その手が震えている。
否。
震えているのは包まれた俺の手だ。
(なんで……嘘だろ)
持ち主の意思などお構い無しに細かな振動を繰り返す体に眉を顰める。
これが疲れからならいい。だが、出かけていたとはいえ同じ国内、しかも車で移動できる範囲で1日。たかが教会の神父相手に話をしただけ。この程度の仕事で疲労とはとうてい言えない。
そんなにも?一体何を感じたっていうんだ。
恐怖感に捕らわれたドライブは既に終了している。十代目のお姿を見た時点で完全に払拭されたはずだ。
分からない。ならいっそ十代目にそのままの言葉を報告しておくべきだろうか。
十代目なら何か直感されるかもしれない。
「ただ……」
引っかかっている言葉を吐き出そうとして、最後の部分でブレーキが掛かる。
言えない。
あんな言葉に震えるほど動揺しているなど。言い知れぬ恐怖を感じているなど。
言えるわけが無い。
「いえ、なんでもありません」
言葉を飲み込む。大丈夫なのだ。不安な要素なんてなにもない。マフィアと違って協会には武力はないし、奴らと繋がりのあるファミリーの方にはもうすでに手が入っている。
武力を持つしっかりとした組織であれば、マフィアに使われたりしないだろう。するメリットがない。
だから俺は優しいその手をやんわりと解く。
けれど一度離れたと思った瞬間、震える指を十代目は追ってぱしっと掴んだ。
「何が、あった?」
「……いえ、何も」
「ほんと?」
はい、と肯定。
手を伸ばせば握り返してくれるこの手さえあれば、あとは何もいらなかった。
それなのに俺は、たった一言が言えなかったのだ。
『気をつけてください』というその言葉が。
▼
かみさま、かみさま、どうぞお願い:
ひたひたと、ひたひたと。
足音が、聞こえた。
目が覚めた時間はまだ深夜といっていい時間だ。
仕事柄そんな時間に起きる事は稀ではないが、それでもどちらかといえば夜が仕事時間だ。昼前にやっと起き出すようなことが多い。何もないのにこんな朝方に起きる事はあまりない。
夢見が悪かったわけではない。今晩は何も見ていない。
起きたのは、夢の中からではなく外からの刺激の所為だ。
耳はいい。
この屋敷に寝泊りしているのはボスだけではない。守護者も部屋を与えられている。もっともそこに住む住まないは個人の自由であって実際外にも住居を構えている奴もいる。雲雀なんぞ自分でもなんだか怪しげな組織を立ち上げたりしているし、そのメンバーがどうもかなり元並盛風紀委員で構成されているという噂だからまたぞろ怪しい。
そう、故に異変の空気を嗅ぎ取って部屋から出るのにそう時間は掛からなかった。
「おい、どうした?」
十代目のお部屋に警備が付くのは当たり前だ。守護者が多いが、それだけでは手が回らないから自然その部下へと役目は回る。今日の男は、どうやら山本の部下らしい男で見たことがある。
俺たちよりも多少上くらいのマフィアらしい男で腕も人間性も信用できる。
その、男が。
呆然と立っていた。部屋の扉は開け放たれていたが、そいつが邪魔で中が見えない。
おい、と凄みを効かせた声を出して、肩を掴むとやっとビクリと顔だけ振り向く。
「ごっ獄寺さん」
「十代目の護衛がぼけっとしてどーすんだ」
「ぼっぼっぼっぼっぼっぼ」
「あぁ?しゃきっと話せ」
「ボスが……!」
その一言でもはや悠長に反応を待ってやる余裕は無くなった。
この異変がアルコバレーノによるものでも守護者によるものでもヴァリアーによるものでもなければ、ボスが、十代目が、どうしたというのだ。
「どけっ」
言い終わらないうちに肩を掴んで押しのける。たたらを踏んで動いた男が扉の前を空けた。
*
十代目はいらっしゃった。俺が部屋を辞したときと同じように机に座っていらっしゃる。ペンは持っていなかった。ただ座って笑っていらっしゃった。
(なんだなんでもねーじゃねーか)
それはぼんやりした言い訳にもならない。今のうちに逃げるというならこの獄寺隼人には通じない。なんせ人間データベースとまで言われる獄寺の記憶力は伊達ではない。
振り返ってそう言ってやろうかと思ったが、その前に十代目にお騒がせしてすみませんともうそろそろお休みくださいと進言するのが先だと思ってそのまま室内に歩みを進める。
だが、どこか可笑しい。
「十代目?」
気付いていらっしゃるはずなのに何も反応されない十代目に、一応声を掛ける。
その違和感。
視線が合わない。十代目の目には俺が映っていない。どこか遠くを見ている。
その瞳を見たことがあった。
ぞっとする、その感覚を一体なんと表現したらいいのか。
「十代目っ!」
絡みつく足を無理やり動かして縋り付く。その人の脈を計り、瞳孔を確認する。この場でできるのはそれくらいだ。直ぐに医者が必要だという分かりきったことしか分からない。
「シャマル探せ!今頃はどーせどっか女のところにしけこんでんだろ」
「はっハイ!」
慌てて携帯で連絡をとりだす男を横目で確認して、一心不乱に呼びかける。
「十代目、十代目、しっかりしてください!」
十代目は麻薬がお嫌いである。
見れば燃やすし、売人を見れば蹴散らす。話を聞けば販売路を消しに掛かる。今回のように。
当然ご自分が手を出すなんて事はない。
――――つまり耐性がない。
麻薬は徐々に徐々に溺れていくから危険である。だが、一度だけでも命や精神に危険が及ぶ使用法だってあるのだ。
十代目がこのままだなんてあるわけがない。あるわけがない。あるわけがない、けれど。
「五月蝿いよ、駄犬」
「雲雀!?なんでテメーが此処に居るっ」
飛んできた凶器を避けながら叫ぶ。
嫌な兆候だ。普段寄り付かない男がなんだってこの時に限ってこの場に居る。
「俺らツナ危険察知力は発達してんのな」
「てめっ……!」
十代目をひょいと抱き上げた腕の持ち主を見て顔を顰める。なんでこんなところに居やがると思ったが、あの男が報告したのかもしれない。
「――――例の麻薬だね」
「一体何処から?」
神の不思議な御力によって天国に昇るような心地を味わえる。
そういう謳い文句で最近巷に出回っている薬。
――――マギ。
その謳い文句の通り、気分は風船のようにどこまでも登っていくし、身体能力も一躍上がる。
だが実際は待っているのは地獄だ。
薬を手に入れるのに法外な金が掛かり、体は一度でもやればぼろぼろになる。依存性がかなり高かったはずだ。
「この錠剤か……」
転がっていた十代目が愛用している胃薬の瓶を拾い上げる。
人の上に立つには心労はつき物だ。十代目は日本から態々中学時代から愛用の胃薬を取り寄せている。
それを、使ったのだ。
たった一錠、混ぜておけばいい。
気の長い話ではあるが、十代目が胃薬を必要とする頻度を思えばそう年単位で時間のかかることではない。
それは十代目しか口にしない。さすがに毒見も行われることはない。いつも愛用しているものであれば尚更。
「錠剤ね……へぇ、こんなの一気に入れられてよく生きてる」
「そんなに強いのか?そいつは」
「錠剤なんてよっぽど中毒が進んでなきゃやんないよ」
ぶるぶると、腕が震える。
もはや体の震えは怒りなのか、恐怖なのか分からない。
「あいつらぶっ殺してやる……」
「丁度いい。僕がここにきたのもその件だし。売人がいるよ」
「ちゃんと生きてんのか?」
「さあね。群れてたから噛み殺したけど」
そうか、ならばいい。
生きているのならばいかようにもできる。十代目の苦痛を味あわせてやれる。あんなものをばら撒いた奴らに報いを!
「おい獄寺っ」
「うるせぇ放せっぶっ殺してやるんだよっ」
「分かってる!俺だって殺してやりてーよ!」
その一言で殺気が溢れる。中学時代からずっとなし崩し的につるんでいるこいつが局地的に出す殺気は常に暗殺者のそれだ。リボーンさんは山本を天性の暗殺者だと言うが、つまりいつもは抑えているということだ。
当たり前か。
ボスを傷つけられて怒らないマフィアなんぞいない。そんな奴は俺が爆破してやる。
十代目、十代目、十代目!
俺たちの全てである人。
「でも、ツナが今苦しんでるんだぞ!?」
分かってる分かってる分かってるっ!
だからこそ苛立たしくて、腹立たしくて、悔しくて、恐ろしくて、怖くて、なにもせずにいられない。何かをしなくてはならない。
……報復を!報いを!!
「おまえなぁ……ツナが苦しんでるんだったら支えてやんなきゃいけねーんじゃねーの?ちゃんと俺らが仕事してツナの仕事が少しでも減るように、ここがずっと変わらねーようにさ。それができないってんじゃやっぱ右腕はおまえに譲れねーよ」
「僕は興味ないけどね」
ギリリと唇を噛む。
確かに山本の言うことは正しい。けれども正しいだけで世界は回らない。人には感情というものがある。
そう喚きそうになるのを奥歯を噛締めて堪える。
俺を救う神はもう十代目しかいないけれど、その彼を救う神はきっと沢山いるはずだ。
だってあんなにも素晴らしい人だ。あんなにも優しい人だ。
俺を家族[ファミリー]にいれてくれたゴットファーザー。
かみさま、かみさま、ああこんなときだけ祈る。
どうかお願いします。十代目をお救い下さい。
「奴ら薬漬けになっちまえばさすがのドン・ボンゴレも先回りできないって腹だろ。おまけにこいつはスピードやエルなんかより依存性が強い」
依存性が強い薬ほど抜くには時間が掛かる。まして薬を抜くためには酷い苦痛を伴う。
それはつまりその間ボンゴレにボスが不在であることを意味する。
ボスが不在では動くことはできない。
――――否、できなくはないが極力限られる。
そうでなくともボンゴレが恐れられる物事の一つにボスの超直感がある。それは少なくとも封じられるということだ。
そうまでして、やりたいこと。マギの売買。そんなものはぶっ潰してやる。
ここでただ苦しむ人を見ていることがなんの役に立つというのだ。
「おい、獄寺?」
「おまえは十代目のお薬の中にアレを紛れ込ませた奴を洗え。ファミリー、業者、少しでも怪しいやつは全部だ。しっかり洗い出せよ」
「おまえは、どうするんだ?」
「……俺は俺の仕事をする」
しっかりと見据えて答える。
向ける足は玄関。目指すのは荒く止めてある車だ。今度は止められはしなかった。
*
「よく来たね」
「ここの収拾をつけるのは俺の役目だからな」
夜遅くだというのに、男は教会の礼拝堂に座していた。
離れられない理由。そんなものは一つしかないだろう。
「テメー、薬はどこにある?」
此処にある。それだけは確信。
十代目のような直感を持ってしなくとも、長年の勘というやつは馬鹿にできない。それから状況と場を読んで答えを導き出す技術も。
俺の出した答えはここにあった。
十代目に薬を盛りやがったのも、このところ薬をばら撒きだしたのもマフィアではない。こっちが本命だ。
アーメン、神父が呟く。
神の像へと向かう祈りの時間は長くはもたない。
なぜなら俺は此処で神に祈りはしない。
ただ、罪を暴くだけだ。
※麻薬の関係はかなり適当です。