赤い闇が確かに見えた。

〜密約〜

自分の中になにかがいるのは昔からある程度知っていた。
あまり褒められた人生を歩んできてはいないが、そのたびに濁りの様にある闇は暗殺家業などしていればよくあるものだと思っていた。
事実、ある一時期はまったくその闇はなりを潜めていたからよもやあんなものだとは思わなかった。
違うと知ったのは極最近。
予感はあのとき―――あいつの懸念を聞いたとき。
ミリーナが死んでからはその闇は強くなる一方だ。


多分、あと一歩踏み込まれたら―――飲まれる。


着実に歩み寄る赤い闇の影が見える。
それを見たくないと思えば、あいつの銀の代わりに思い出す赤。
髪ではない。酷く印象的で、自分と唯一の接点の瞳。
魔王の色。

「らしくねぇなぁ」

呟いて唇の端を吊り上げて見せる笑みはあいつと口喧嘩するときのような不敵な、どこかほほえましいもの。ミリーナがいれば何が楽しいのかと聞いてくるくらいに楽しそうなのだろう。
なんだってあんなチンシャクを思い出して、あまつ和むのか分からないが僅かにいつものスタンスを取り戻す。
同じ赤。同じ魔王の色。
なのにつかの間でも振り払ってくれるというのは……

「さすがドラマタ。」

口に出せば『なによ、釣り目。空回り男』とでも返ってきそうだとくつくつと笑いを零し、おもむろに顔を引き締めて”それ”を呼ぶ。
賭けを申し込むために。

「おい。」

深く、深く。己の闇に。
呼びかける声は届いたらしい。

――――我に気づいたか、人間よ。

「んなところにいたら誰だって気づくだろうよ。」
―――存外気づかぬものぞ。

男とも女とも、老いているとも若いとも言い難い。
まあ魔族というものは本来精神世界に本体を置くものであり人型というのはわざわざ作るものだというから如何様にも変質するのだろうが。

―――我と同化するか、我に飲み込まれるか。我の器として選ばせてやろう。
「いや。その前に一つ、聞きたい。」

冗談じゃないとつっぱねるところを曖昧にぼかして。
ふわりと揺れる茶色の髪。小柄な肢体に勝気な笑みを浮かべる女をを思い浮かべる。
魔王は己の中にいるのだ。思えばそれを読み取ることなどたわいも無い。

「あいつはお前の欠片かい?」
――――水竜王の封印は強固。人間の中にある我を知るすべは無い。

「まあ確かにずいぶんと弱ってるってぇ話だしな。」
――――七分の一とはいえ魔王によくも言えることだ。

「一応この体の主は俺だからな。」
――――我を拒む、と?

「いいや。こいつは俺にとっちゃあ伸るか反るかの賭けなんだよ。」
人として終わるか、魔王として進むか。
どちらにしろ同化以外の道は残ってはいない。
この闇を抱えている限り長く誰かと一緒にはいられない。かといって一人でいるには長いことは耐えられない。
意識の欠片も残さずに魔王に取り込まれるのは困る。
……あいつが目の前に現れるまでは。

あいつのためになんて言うのは冗談じゃないが、魔王相手に喧嘩を売ろうというのだから条件はそろえておかなくてはならない。
あいつが契約を果たさないという選択肢はこれっぽっちもなかった。
そのためには必要な自我。

「あんたもあいつと戦いたいんだろ?だったら丁度いい。それまで俺を残しておけ。」

魔王が読み取れるならその逆も可能。自分から読み取った魔王の欠片の思念にあいつを見つけてそう願う。
戦いたいと願ったのは二年前あいつに滅ぼされた一つの欠片。

「それが条件だ。」

それに実体は無いが、睨み合っているかのような緊張。
冷たい汗が背を伝うがそれは引けない境界線。
やがて……

クツリ、と闇が笑んだ。

―――お前もあの娘に焦がれるか。
「ちょっと待て!なんじゃそら。」

―――我も確かにあれに焦がれる。
「ふざけんなっそれも止めろ!!」

くつり、くつり。

何が楽しいのか笑う魔王。
ずるり、ずるり。
這い上がる闇。
ちらつく赤に振り払いたい気が少し擡げるが、終わってしまえばそれはそう悪くも無い。
もともと自分の中に眠っていたものだ。表面に出てこようとも何か変わるものがあるわけでもない。
そう。今までと同じ。ただ、その意思が同化しただけ。口から零れる言葉も載せる笑みもどちらのものでもあるということだけだ。

「お前と我は同じ」
――――その言葉、忘れんなよ。