男は空を見上げるばかりの生活が似合わない。見上げるよりもその下にいることを好む。
―――――のだが。
のっぴきならない事情により男は今自由な空の下にはなかった。
他よりも余程天に近い場所にあり、空に近い場所に留められながら、そこから出ることが適わなかった。
男の兄に言わせるのならそう長い時間でもない。事実彼の生きてきた時間からすればほんの十分の一にも、むしろ百分の一にも満たない時間であろう。
けれど、この男には―――-特に現在の心情的には――――大変な時間であると感じる。
物理的な障害はない。
もしもその後のことを考えずに行けるのならば。
もしも兄の性格を知らない者だったのならば。
だが……そう。だが――――-
筆が止まり、溜息が一つ落ちた。
君鳴く鳥の声聞く時にや
「まだいらっしゃったのですね。」
珍しい、と書卓に向かう彼の後ろから柔らかな声が掛かる。
盆を持ち、香草茶を淹れた碗を差し出す人影が金の髪に光を反射させていた。
そんな驚きを含んだ言葉を――――別の誰かが言うなら嫌味である――――棘はないものの慈悲の者である麒麟が発したことに苦笑を隠せず利広は返した。
「酷いなぁ……私だって行けるものなら行きたいのだけれどね。」
放蕩息子と行かせてくれないのはそちらだろうと言えば困った顔で昭彰は曖昧に笑う。
昭彰にそれを言うのは確かに困るのだろう。彼女はいわば中立であり、彼を止める方にも立っていない。
文句を言うに筆頭を上げるなら兄であろう。奏の官吏の気性の代表であるかのように鷹揚でのんびりした感のある父王に代わり利広の素行に厳しい。次いで母か。母親であるということはこの歳でも変わらず、やはり素行に厳しく叱られることが多々あった。面白物好きな妹は時と場合により言動を変えるが、父は往々にして情報を持ち帰る利広の放浪癖を嗜めることはなかった――――いわば甘い。
先の不在は一年。確かに長いがまったく帰ってこなかったわけでもなく、顔を見せる程度なら一度か二度あったのだから常と変わらず。それに居場所が決まっていた。
ただ、最南の奏の王宮まで届くような派手な行動をしたのがいけなかった。
初めは普段と変わらず、面白い少女を見つけて話をしたり、出かけるなどしていたのだが……ぶつかった事件が、というよりは相方の少女の正体が問題だった。
挙句の果てに彼は少女に非常に興味があり――――これまた正確に言えばその少女を好いていて、そのためだけに慶にいたのだ。それがばれれば後は早い。
大事な主に手を出されてはと慶と雁から知らせを受け――――そう。なぜか雁からも知らせがあったという――――現在の仕事詰め生活である。もっともすでに手遅れだが。
そんな原因と、会えない不満を思い出してまた一つ溜息。
(……しかもばれたのがあの狸親父というのが気に食わないよね……)
なんであんたが此処に居るんだ、という突込みが互いになされたのは言うに及ばず。
事ある毎に邪魔された怒りは無事、事の終わった今でも収まらない。
「溜息ばかりでは捗りなさいませんでしょう。少し休憩をなされたらいかがですか?」
ありがとう、と礼を一つ。最初の溜息から止まってしまった筆を硯に置いて、休憩の体制をとる。
渡された香草茶と同時にそれを淹れてくれる別の人を思い出した。大概彼女が手ずから淹れてくれたが、似合わずというのは失礼だが彼女は非常に上手かった。
何をしても思い出されるのだからもはや末期だと苦笑する。
そんな利広を見、昭彰は確認を取るように注意深く話を向けた。
「御文は差し上げられたのですか?」
「先日。お陰で暇があると見られたのか見ての通りの仕事量だよ。」
去年見てきた彼女の書卓程ではないが、雑多と積まれる紙の束を示す。
仕事の手際に問題があるとは思えない。なにせ要領は良いほうだ。
それを見て、昭彰は僅かに眉を顰めて不振げな顔をしてみせた。勿論彼の今回の恋愛成就は家族中の知るところにある。
そう、彼らは文よりももっと便利なものを連絡手段として用いられた。
「何故鸞を送りませんの?」
文も鳥も誰に、というのは問う昭彰よりも問われた利広の方がよくよく分かっていた。
彼がどうしても外に行きたいと思う理由。
好きではないが、どこかの王と違って逃げ出したくなるほど仕事が嫌いというわけでもない利広の溜息の最大の原因にだ。
それは陽子という名を持ち、景王という号を持つ。
そんな少女の見事な紅い髪が、翠の瞳が。
大分会っていないが薄れることなく鮮烈に残っている。
今も、そう。
「会いたくなるじゃないか。」
ひょいっと肩を竦めてみせ、なんでもないことを装うかのように口元に笑みを佩いた。
「陽子は律儀だからどんなに忙しくてもきちんと返事をくれるだろう?」
声を届けることの出来るそれは便利といえば便利だ。飛行時間にかなりの時間差は生まれ、蓬莱にあるという”電話”なるものほど便利ではなく、されど遠方にあってもその声が聞ける。
それは良いことだ、と思うのだけれど。
「会いにいけないのに声を聞いたらそれこそたまらなくなる。」
たかが声一つ。されど本人の声は。
文の返事も文字が苦手な彼女らしく、わかったと一言。それに分かれてから後の話がつらつらと一見そっけないような気がしたがただ綺麗過ぎない手が自分で書いてくれたのだということを伝え、僅かに笑みを上らせた。
「きっと景王君も寂しく思われていられるかと。」
「そうかな。」
穏やかな物腰ながらさり気に自信満々である次男にしては珍しく否定的な発言だ。
特に男女の仲に気弱な姿など見たことがない。もっとも姿自体を見る機会が主や他の兄弟たちに比べて少なかったが。
歳をとらない身で老いていく者と恋をすることがどのようなことか宮から出ることのない昭彰には知るべくもないが、少なくとも今彼の思う相手には関係がない。
ならばなにを憂うのか?
「陽子は忙しくてそれどころではないと思うけれど。」
利広ほど恋愛に気力を割いている余裕がない、というのが彼の見解だ。
真面目でどうにも美人ではあるが女気のない彼女は恋愛というものに疎かった。はっきりと言えば鈍い。それゆえの苦労を実は楽しんだ。振り回されることも陽子にならば悪くなかった。
時に突拍子のない彼女の行動は清々しくさえある。
そうしてその周りを囲う男の存在。勿論彼女が女王であるという点がそれを仕方がないとは思うのだが。
一瞬、冷ややかな空気を身に纏うも穏やかに笑む昭彰が目に入って慌てて笑みを取り繕う。
それは不安、ではぬるい。嫉妬という感情だ。
この距離と油断ならぬ相手がぞろぞろと彼女の周りに居るからだろう。一番手強いのは陽子自身であるような気がしてならないが。
「恐れながら景女王は利広様に比べればどのような方も年齢的には子供でいらっしゃいます。」
どこか嗜めるように昭彰が言った。
六百を越す彼ら以上の人物はそうはいない。
まして未だ人である歳ほどしか取っていない陽子が精神的に彼より大人であるわけがない。
「ああ、うん。そうかもしれないな。」
「ですから。寂しさもひとしおだと思うのですが。」
なにがどうしてそうなるのだろう。
分からずに利広は続きを請う。
「しかもお聞きするところによると景女王は真面目で慎み深いとか。それこそ忙しいと書いたのならそれを遠慮して我慢なされるお方のように思われたのですが。」
あっと今気づいたような顔をして利広は席を立つ。
その可能性をまったく失念していた。
「確かに陽子は慎み深い……そうだよ。本当にそういう子だ。別の意味ではまったくだけどね。」
無頓着な彼女に自分だけでなく誰彼と注意を促していたことを思い出してそれは否定しつつ。
確かに書いたのだ。『しばらくは王宮に缶詰。忙しくて行けない』と。
彼女は書いてよこしたではないか。『わかった』と。
だから言わない、だから文も鸞も来ない。利広の邪魔をしないように、と。
そういうことだ。少なくとも昭彰はそれをいいたいのだ。
もちろんそれが真実だという確証もありはしないけれど。
だが、一度浮かんだ思いは元々行動力あふれる利広をとめてはくれない。
そもそもいい加減煮詰まっていたのだから吹っ切れた、と言うべきか。
「見つかったら兄さんと一戦かな。」
やれやれと大仰に吐いてみせればもう書類の束を放り出すことは決まっていた。
なにせその溜息の意味が違う。
「でしたら先に言付をお届けされたら?」
「そうだな……行って陽子が居なかったりしたら困るしね。」
王が不在ということは普通滅多にあることではないのだが、彼女の場合わからない。
もしも、本当に寂しいと思ってくれているのなら賑やかで気を紛らわす物の多い城下に行くことも考えておかなければならない。もっとも利広の持つ騎獣と鳥とどちらが早いか。なにせ利広は休息を必要とするが、その分鳥には改める手の数がある。
「荷物の前に私は鸞を借りられないか聞いてくるよ。」
「いえ……ここに」
一度止めた足をもう一度進めようとした利広を止め、昭彰は持っていた盆上のものから被いを取った。
利広は菓子の乗る碗だと思っていたものが鳥篭であることを知り破顔した。
一言、腕に乗る鳥に声を乗せる。
――――これから、会いに行くよ――――
鳥が早いか、利広が早いか。
分からない以上多くの言葉は必要ない。
主の太子を拝して見送り、背後――――堂室を隔てる扉を伺う。
「これでようございましたか?」
カタリ、と小さな音を立てて堂室に人影が滑り込んだ。
鮮やかな衣装。それは麒麟である昭彰に劣るところのあるものではなく、故に女官であることはありえない。鈴を転がすような笑い声を含み、彼女は言った。
「ええ。昭彰ありがとう。上出来だわ。」
昭彰と麒麟の字を呼び捨てにする彼女は出て行ったばかりの男の妹――――文姫だ。
くすくすと機嫌よく労う彼女に昭彰は小首をかしげて問う。
「どうしてご自分でお見送られなかったのですか?」
「だって私がいたら利広兄様はいかないでしょう?」
例え寂しいのだろうと思っても、文姫では昭彰のように諭すことはできない。
指摘することは可能だろうが、行かせることはできないだろう。彼も文姫の方恋を知っている。
「それでは何故、今回に限って手伝いを?」
いつもはずるいと言ったりお土産をねだってみせたりするものなのに。
なのに昭彰に頼み、鸞を渡したのは文姫だ。
自分が行けないことを他人がすることは腹の立つことでもある。それなのに?
「私だって会いに行きたくなるときがあるのに、私より機動力があって我侭な利広兄さまが我慢できるわけないじゃない。」
遠く、見据えるのは東の空。兄が向かった場所と同じ方向であるが、いま少しそこは遠い。
行動力はともかく兄ほど機動力のない身としては会いに行きたくともそれが叶うのはそれこそ何十年に一度、何百年に一度の単位だ。
「景王もきっと寂しがられておられると思ったし。私も利広兄様が振られて彼女と縁が切れるのは嫌だし。」
噂の絶えないかの王に会ってみたいの、とちゃっかりと自分の都合も考えているあたりに安心したように昭彰は笑む。
文姫も飛び出したいのではないかと一瞬危ぶんだ。兄の背を押すことは自分の背を押すことでもあるのではないかと。
―――――生憎と公主の想いが無骨な雁の将軍に届いたという噂は聞かない。
「帰ってきたら利達兄様に精一杯怒られて頂きましょう。」
それにもしかしたら―――――――
晴れやかに笑って文姫は言う。
のろけた利広兄様が勝利を収めるかもしれないわ、と。
次項